社会に出て働いていないといっても日常生活の業務じみたものは際限なくあった。
 郵便物の整理をすること。DMや公共料金の領収書がたまって箱の中から溢れそうになっている。浴室とトイレの掃除。床下の換気扇の故障の修理。庭の杉の木の枝が隣家にかかっている、その剪定を業者に頼むと同時に庭木の手入れをみてもらうこと。
 彼女は立ち上がり、浴室とトイレの掃除を二時間かけて行った。
 気分がせいせいした。
 再び、化粧台の前に座ったときはいつもの美咲に戻っていた。
家事業務の流れに乗って変身作業に取りかかったまでであった。
 
 美咲が青梅駅の駅前広場でタクシーを拾い、智樹の家に着いたのは午後二時五十分であった。時間に遅れることの嫌いな彼女は二十分前に着くようにとも考えたが、芳恵より早めに着いて彼女を迎えるのも立場上変だと思い、智樹に電話を入れて相談した結果の時間であった。
 彼女が智樹の家の表札を確認した時、美咲はすばやくあたりを見回し、自分を注視しているものがいないか確認していた。買い物帰りの老婆や下校する男子中学生、ウオーキング中の定年退職者の姿しかなかった。インターホンを押すと、玄関のドアが開いて、智樹が門扉まで迎えに来た。まだ、芳恵たちは着いていない、といいながら、玄関から右手の応接間に隠すように彼女を入れた。
 美咲が彼の家を訪れるのは初めてであった。応接間に立って、テーブルをはさんだ横長いソファに座ろうとして、すくんだ。智樹と並んで座るべきではない、向き合う形にすべきだと判断したのであった。
 智樹は彼女と向き合って座り、柱の掛け時計が午後二時五十五分を指しているのをみた。
 彼女はハンドバックを下腹部の上に置き、かまえを示した。
 三方の壁を見回すと、張られた写真が彼女を包んでいた。孟宗竹の幹が全面に茂る竹林であった。幹が長い影を投げて立ち並び、あるいは青々とした節を見せて陽を浴びている。地面に積もった枯葉が白く輝き、苔むした石が数個並び、低い位置では竹の子が茶色の斑模様を見せて伸びている。後に智樹の父が六十年前に業者に張らせた壁紙だとわかった。
 彼女は竹林の中にいるような気持ちになった。その感想を口にだすことはなかったが、壁紙の端が古びてくすみめくれかかっていることに気づいた。
 智樹は両肘をテーブルの上に乗せて組み、耳を玄関の門扉と裏口に傾けて、芳恵達の到来に気持ちを集中している。美咲は彼の緊張した顔を初めて見た。 
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