二人はいっしょに生活しながらほとんど口を利かなくなりましたが、口に出すときは家の外に聞こえるくらいに二人は言い争うのです」
 そこで男が言葉を置くと、
「うちが今それに近い生活です」
 と芳恵は口を入れた。
「三十五歳で結婚したのですが六十五歳になるまでそんな生活がつづきましたが、ある時主人がすい臓がんの末期であることが病院でわかりました。医者に二年の余命を告げられました。主人は抗がん剤に頼りましたが、すっかり体力を落としていきました。
妻のほうは最初はそれをいいことに主人に難癖をつけていましたが、主人はまったく反論もしなくなりました。難癖というのは主人が裏口の戸の鍵を掛け忘れたとか妻宛の電話を知らせなかったとか自分の財布から金を盗んだんじゃないという邪推などですが、主人はなにを言われてもおだやかな顔でなにも言い返しませんでした。彼にはすぐそばに(死)があり、妻のいうことはすべて小事だったのです。するとどうでしょう、妻もその心理を察してか難癖をつけなくなりました、おだやかな夫婦になり、主人は二年後にだまって逝きました」
 ここで男は言葉を置いた。
 「なんだかわかります」
 芳恵はまっすぐに立ったロウソクの炎を見ていた。
 「芳恵さん、あなたの場合、今の智樹さんの家から出て、マンションで生活すべきです。ただしあなたもわかっているようにあなたが智樹さんの過去にどれだけ執着して囚われるかということですよ」
 「そうなんですよ。わたしもそれを考えるんですよ」
 「あなたが涅槃像のお釈迦の顔のように、その顔に少しでも近づければ智樹さんの女狂いは少しずつ消えていくでしょうが、あなたが恨みと警戒心、猜疑を持っていれば彼はまた同じことをするでしょう。先ほどの夫婦の場合ですけどどちらかがネハンにもっと早く近づいていれば喧嘩ばかりしなくてすんだんですけどね。この一歩のちがいですよ」
 そこで男は自分の言ったことを思い返し、(彼女にとってなにが大事なのか)を教えるべきだと考えた。
芳恵も無言のうちに男の言葉を反芻した。
「あなたにとっての(大事)は子供達をりっぱに育てることです。つぎにご主人との関係です」
「そうなんです。主人との関係なんですよ。ところで、今日の話し合いなんですけど、どうしたらいいでしょうか?」 
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