壁に小さな明かりがかけられているだけで暗い。
 若い僧はある引き戸の前で停まった。
 引き戸を軽く叩くと、
 「芳恵様をお招きしました」
 と少し開いた中に声をかけた。
 返事があったのだろう、彼は彼女を手で中に招いて引き戸を静かに閉じた。
 「暗い部屋で申しわけありませんが、そこの椅子にお座りください」
 そばから男の声が聞こえてきた。
 気配はあるが姿は見えない。
 椅子が板壁のそばにあった。腰を下ろすと、すぐ右手に四角い人の顔ほどの穴があるのがわかった。
 「こんな所は初めてでしょうができるだけ仏に近づくにはこの場所がいいのですよ」
 男の声はその穴のそばから聞こえてきた。
 声の方向からして男は彼女と平行して座っているようだった。
 「お話の内容はだいたいうかがってますが最初から詳しくお話していただけますか?」
 物静かな口調で男は言った。
 芳恵は腰を引いて椅子に深く座った。
 前に小さなテーブルがあり、その上に一本のロウソクが炎をまっすぐ立てていた。
 彼女は炎を無心になって見つめた。
 頭の中によみがえってくる記憶をまとめていった。出来事の糸口を探し、(俺の女をかえせ!)と放言されたところから話し始めたが、そこから智樹と美咲の出会いの時期、会ってたラブ・ホテル、と話はいくつも前後していった。男の質問に答え、全容にいたるまで三十分はかかったであろう。

 「男と女の問題はむずかしいし、人生そのものがむずかしいのです。そこでお釈迦様は難行苦行をされて悟りに近づかれたわけですが、この話をすると際限がありません。はっきり言いますと生きてる限りは煩悩から抜け出れないのです。死んでから抜け出るんであれば遅いし、意味がないじゃないか、と当然反論されますね。でも煩悩から遠ざかることは出来ます。それは(死)を知り、つまり(死)はいつでもトナリにありいつ(死)に見舞われてもおかしくないということを知ることなのです。こんな夫婦がいました。交際当時から言い争いの絶えない夫婦で不思議なことにそれほど仲が悪いのに結婚したのです。子供が産まれ、生活はなんとかしのいでいたのですが、主人に女が出来、さらに夫婦仲が悪くなりました。 

前
火炎p138
カテゴリートップ
火炎
次
火炎p140