パソコンのディスクから空調の音が低く伝わってくるだけで物音はない。
次号の紙面がパソコンの中で出来上っていた。彼は目を通し、目を閉じると読者がうけとるイメージ、雰囲気を感じ取ろうとした。制作した側ではなく、一般読者になりきってどんな反応になるかを予想していたのである。
 読者を刺激し、興奮させなければならない。不正を暴露し、読者の常識観、正義感に火をつけ、憤らせねばならない。満足させねばならない。あるいは写真や詩や川柳において心を安らがらせる、そのバランスを取り読者の心をあやつるのが一流紙なのである。
 マスコミは読者・市民の心を酔わせ、コントロールする魔手であり、一歩まちがえばとんでもない世界へ読者を誘導することさえできる。そんなことを痛感する。
 とつぜん、ガラス戸が叩かれた。
通りに沿った側である。
智樹は肩をビクッとさせた。
 回転椅子を回して振りむき、窓辺を見た。
 男がガラス戸のそばに立ち、影絵が写っていた。なにかを智樹に話しかけているがよく聞き取れない。
 智樹は立ち上がって窓辺に寄っていった。
 「誰ですか?」
 相手はこたえない。
 智樹はしばらく気配をうかがった。
 そばは通り道だから人の姿がなくなることはない。ここで異変が起こっても誰かが気づくことになり、人目があることは安心材料である。
 彼はガラス戸のフックを外し、開けた。
佐藤であった。
片手に何かを握って、立っていた。
薄闇の中で視線が宙に留まっている。
 「直接来たほうが早いと思って、勝手に裏の門扉を開けて入ってきた」
 佐藤は智樹を見上げた。
 酒に酔っている。
 智樹は小さな声で彼を中に招き、通り道に目を向けて人の気配のないこと確かめた。
 佐藤が片手に持っていたのは日本酒の一升瓶であった。

 「この前の話であんたは俺を目覚めさせてくれたんだよ。普通の生活で終わるはずだった俺をね。六十四歳になった男が死ぬ前に何を考えるかわかるかい?」 

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