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人生や社会は謎に満ちていますが、(美)もその中の一つでした。美とは何か?何が美なのか?と問われても答えられる人は少ないでしょう。わたしもその一人でしたが、現在(ガラパゴスの女)という小説を書いていて自分なりに結論が出ました。幼い時から人は、あれはきれいな花ね、あれはきれいな顔ね、あれはきれいな色ね、などと言うふうに周りにいる母親や教師に教えられ(洗脳)て美の観念をインプットされていくわけですが、それは真実ではないのです。美は秩序や形に基づいてはいないのです。時代によって美人の基準は変わってくるし、現代の整形美人をみてもけっして美しいとは感じないし、美とは程遠いものに美を発見する場合もあります。美に定義はないのか?というとそうではなく定義はありそうです。
花はなぜ美しいのか?それは美によって昆虫や蜂を呼び寄せ、交配してもらわなければならないからです。美しくなければならないのです。枯れた花であれば美しくないので昆虫も蜂も寄ってきません。自然界における真理は惹きつける力が美であるということです。人間中心主義の観点では真理を見失ってしまいます。
(ガラパゴスの女)では主人公が奇形顔の女に恋することになり、なぜこんなふうになったのか?と思い迷います。結論として彼女がそのハンディに耐えてきたすごい抵抗力(エネルギー)を持っていることがわかり、それが常人以上のものであり、その引力に自分が惹きつけられていることがわかります。それが美であることを悟ります。
人を惹きつけるものは何でしょうか?権力、金、官能、慈愛、熱意、直向さ、などありますが、それが良いとか悪いとかの次元ではなく(美)なのです。
67歳になるまでかなりの女を経験しました。かなり、と書いたのは数ではなく、深さと強さにあるからです。よく100人切りと言って自慢する男性がいて、わたしも憧れましたが、今は100人と交わっても良い女に出会わなかったのか?と考えます。男でも女でも本当に愛する相手がいれば必然的に他の異性を遠ざけ、一人のために精力を費やすようになり、それが理想的です。
・女はレイプされることの恐怖、妊娠することの恐怖があり、暗闇を恐がる傾向があるのでそのことは念頭に入れておくほうが良いです。
・女と言っても同じ人間ですから特別に構える必要はありません。特に食べることには貪欲ですから、食べ物の会話から入るのがスムーズにいきます。セックスも好きですが、それを会話に入れることに抵抗感のある人と無い人がいますので見分ける必要があります。
・女とセックスをする場合、これはまったくタイミング次第です。だいたいの女は生理に入る一週間くらい前から欲情してくるので出来れば生理日を知っておくほうが良いし、生理の前後一週間は妊娠しません。主人と死別したり、男に捨てられたり、女が男を欲しがってる時に出会えば難なく結ばれますが普通はいくら尽くしてもソッポを向かれたり肘鉄砲を食わせられることがあります。二人きりになった時、女がハンドバックで下腹部を覆っていればそれは拒否の印です。無理強いや深追いは絶対に止めましょう。女はますます反感を抱き、あまりしつこいとストーカーで訴えられる場合があります。
・女の目が輝き始めたり顔を赤らめたりし始めたら、欲情のサインです。いきなり抱きつくのではなく、
柔らかい手をしてるね、と言って手を握ってみたり、体や顔を寄せて反応を見ながらじょじょにすすめていきましょう。慌ててはダメです。
女は補助的な人も含めて少なくとも二人はそばにいるようにしておきましょう。本命がダメになった時、ショックを受けてもなんとか二番手でしのげるからです。友達関係の女も作っておけば他の女を紹介してもらえるチャンスが訪れます。
・女の資産も知っておくほうが良いです。無一文の女とくっついてしまえば寄生虫のように吸い取られていくだけです。
・誘いをかけて二度断られればさっさと諦め、次の女に向かいましょう。
・女は口がすごく軽いので秘密は絶対にしゃべってはいけません。わたしの知ってる女は付き合ってた近所の男のペニスのサイズまで漏らしました。逆にわたしのプライバシーもしゃべられるということです。
・女にもいろんなタイプがいます。セックスの大好きな女、ほどほどの女、まったく興味のない女、とさまざまですからよく知ってから付き合ったほうが良いです。
わたしは初対面の人に出会った時、あなたはすごく頭が良いですね、と言われることがあります。ところがわたしは自分の頭の悪さを実社会でじゅうぶん経験させられているのです。例を出します。普通自動車免許は28歳の時に取りましたが、それには悲惨な過程がありました。一年間も教習所に通い、卒業検定も知り合いの指導員に下駄をはかせてもらってやっと取れたのです。そんなに長く教習所に通った者は初めてだ、頭のおかしい人だと言われ、投げ出そうと何度も思いましたが今では普通免許を取っていて良かったと思うし、それでメシもなんとか食えてきました。ともかく記憶力が悪い、手先も不器用である、応用力もない、と良いところは一つも無いのです。
こんなわたしに頭が良い、と言う人はどこを見てるのか不思議です。ただ突拍子もないことを言うのは確かで、このHPのブログに掲載してる通りです。全体を見渡す視点、哲学的思考はありますが社会に認められたことはありません。この歳になって自分の歌がうまい、料理が上手である、などということがわかり、歌手や料理人、デザイナーの世界に進んだほうが良かったと思いますがすでに67歳です。でも歌に酔うことを知り、酒など必要がなくなりました。カラオケ屋に一人で入って歌ったり、自室で歌ったりで自己満足し、それでじゅうぶんです。
一般的に、頭が良い、という場合は二つのケースがあります。記憶力抜群で、学校の授業を受けるだけで一流大学を合格し、マニュアルを軽くこなす人がいます。すべての組織はマニュアル化されているのでどの世界でも通用します。学歴はないが、勘の鋭い人、がいます。テキストを見なくても車のエンジンの分解・組み立てが自在に出来ます。この人もどの世界でも通用します。
この両者に枠組みから離れた視点があれば素晴らしいのですが、その二つの能力が高ければ高いほどその視点の能力は失われていきます。逆にその二つの能力が低ければ枠組みから離れた視点、その能力は高まります。これが天才です。
もしかしたらわたしは天才なのか?などと冗談に思ったりしますが、ここで言いたいのは世間の評価というのは多数派の基準にしか過ぎず、あまりあてにはならないということです。人間の能力をペーパーテストで判断出切るなんて考えているのは受験産業、教育業界、文部科学省の役人たちであり、その権威にすがってメシを食っている連中なのです。この利権の構造が変わらない限り、天才も英雄も出てくることはありません。
(壁のない風景)ー井上佳子著・絃書房、を読んで驚き、何度も泣きました。ハンセンシ病患者の生活を書いたものですが、こんな収容所が平成7年まで存在してたことが今でも信じられません。この国の役人、政治家、マスコミ、医者、国民に対して不信感をもち、ガラパゴス国民という言葉が思い浮かびました。
ハンセン氏病は二十歳前に感染によって発病することが多く、発病すると赤い斑点が皮膚に出来ます。病院でハンセン氏病だと告げられると保健所から係員が訪れ、(らい予防法)を盾にとって患者を施設に強制収容します。一生、そこから出れなくなります。そのあたりは小さな部落になっていて、理容店、浴場、公会堂、お寺、キリスト教教会、スーパーなどすべてが用意されています。外出願いを出して帰宅しても身内は家の中に入れません。近所に知れ渡ってライ病がうつると風評を流され誰も相手にしなくなるからです。病気が完治していても遠くから家を懐かしんで見てることしか出来ないのです。施設内で恋愛をし、結婚が出来ます。子どもが出来ると、堕胎させられ、不妊手術を受けさせられます。遺伝の可能性もないのにです。ナチスの断種法と同じですね。
患者たちの抗議運動で裁判になり、国は謝罪し、賠償金を払いましたが、少しでも変わったことをいうと変人扱いするような国民性がある限り、いつでもどこでもこんな悲劇は繰り返されるでしょう。
以前から不思議に考えていたのは本の値段についてです。本は芸術品でもある、と考えていますが絵画、骨董、書、映画、演劇などと比較して値段のつけ方が変であり、それが作家の成長あるいは良い作品を産むことへの障害になっていると考えます。印刷して大量生産できることが作品の本来の価値を下げているのです。骨董品や絵画であればコピーは出来ませんから、一作品あたり何千万円という値段がついたりしますが本の場合はそんなことはありません。カミュの「異邦人」が文庫本で300円であれば無名で売れない作家の文庫本もおなじサイズとページ数であれば300円なのです。作品の価値も同じかといえば段違いなのです。ブック・オフなどの古本屋に行ってみればよくわかります。作家別に文庫本が並べてありますが、売れ残りばかりですが、無名作家の作品が圧倒的に多くならんでいるのです。一度も名前を耳にしたことのない作家もいてその数におどろきます。
わたしは近作の小説はほとんど読みません。どんな有名作家の作品もそうなのですがページ数ばかりやたら多くて、読み始めてテーマに入るところまで意欲が届かず、挫折してしまうのです。歳をとってエネルギーがなくなったかもしれませんが、ともかく不必要な文章・場面が多すぎるし、書き方が警察物などはマニュアル化していて印象に残る人物や出来事が出てこないのです。文学賞をとった作品もそうです。今の時代は作品の実力より、知名度、宣伝力なのです。
出版社側は作品のページ数、どんな内容か、作家は誰か、値段はいくらにするかなど当然商業主義をベースにしています。大量生産・大量消費です。ページ数が多いと値段を高く出来ると考え、作家もそのように考え従います。だから良い作品を書くことより、大量の文章が頭にあり、それを気にしているのです。
わたしは「異邦人」が文庫本で三千円で売られていても買います。コンサートやイベントの入場料が数万円であっても買う人と同じ気持ちです。本の世界にもそういう考え方があっても良いはずです。そうすれば作家も時間をかけて良い作品を書こうと考えるし、出版社側もそうなっていくはずです。
イスラムのテロ組織がフランス新聞社を襲撃して社員を殺害し、フランスでは大規模な抗議行動が起こっている。日本の新聞はそれを民主主義対テロ組織の構図で捕らえているがこれはキリスト教国側に肩を持った報道の仕方である。この対立はイスラム教対キリスト教であり、どちらも強固な一神教で他教の存在を許さないものである。イスラム国側にとってはグローバリニズムのもとに欧米の資本が石油を狙って侵略し文化や資本主義、民主主義(金権主義)、宗教で乗っ取ろうとしていることへの対抗措置である。日本の歴史を見ればペリーの来航によって大砲を打ち込み開国を迫った被害経験がある。日本人は生麦事件などおこして欧米人を切り殺している。国家主義・宗教主義の台頭である。
キリスト教側は世界を制覇しているから構えが緩やかであるがそれに反撃する少数派は過激にならざるをえない。キリスト教側は産まれた時から洗礼をさせ、教育、文化、思想、政治などすべての分野にしっかり根を下ろしているからそのシステム通りにまかせておけば布教できるのである。彼らが十字軍を例にとればわかるようにいかに残虐非道のもとに世界制覇を成し遂げていったかは歴史をみればよくわかる。
テロが酷い、という視点からではこの問題は解決しない。イスラム国を建設するのだろうからかれらなりのやり方にまかせてどんな国が出来るのか静観しし、出来上がった国と交渉をすれば良いのであるが、石油というグローバリニズム(世界資本主義)の生命線が絡んでいるから簡単にはいかない。
アメリカはイラクに侵入し、フセインを暗殺し、ビンラディンに懸賞金をかけて殺した。つぎは北朝鮮の金に懸賞金をかけて殺すだろう。理由はアメリカにサーバー攻撃をしかけて破壊しようとしたからである。明確な動機、正当化は出来上がっている。いつものアメリカのやり方で攻撃を仕掛けさせて、攻撃し息の根を止める。日本の真珠湾攻撃に始まる開戦もこのマニュアルに沿っているし、アメリカの世界侵略の歴史は兄弟国であるイギリスをもはるかにしのいでおり、グローバリニズムの美名のもとに世界帝国を築きはじめている。破壊したあとは復興援助の名のもとにその国にはいり、政治体制を民主主義(民主独裁主義)に変えて政権の中に入り込み、経済援助、武器輸出の名のもとに搾取していく。日本も出兵してその一旦を担わされることになる。
イスラム国はそれに対抗することで領土を広げ、オスマントルコ時代までの領地を取り込もうとしている。アメリカの良い敵ができたし、この国はいつも敵を持つことで元気になり発展してきた。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イランイラク戦争などまさに(戦争屋)なのである。ドイツは海外支援という名のもとにこの紛争地域に武器輸出することを決めた。死の商人、であり双方の対立集団に輸出すれば莫大な利益になり、兵器産業、重工業がうるおい、次に復興需要を待っていれば良い。
世界史年表をみればわかるように世界で戦争がなかった時代はない。災害がなかった時代もない。戦争、災害、暴力、破壊行為が絶えず起こり(自然界での火山噴火、地震、津波と同じように)、資本主義は復興援助の名のもとに、谷深ければ山高し、の言葉にあるように発展し、全滅に向かって進んでいる。
戦争はしてはいけないし、好きではないが、戦争はなくならないことを前提にして国策を進めていかねばならない。自然界の食物連鎖の中で人間は天敵をもたず人口抑制ができないから戦争が起こるのである。皮肉なことにすべての国が核を保有すれば戦争はなくなるかもしれない。
街をバイクで通っても脚で歩いてみても正月らしい雰囲気がない。まったくというほど無いのである。飾りつけや看板やネオンにないというわけでもなく、夜のイルミネーションだけは人工的に鮮やかである。人の姿はあっても人声が絶えているのである。喜び、笑い、わめき声、怒鳴り声、叫び、すすり泣き、騒ぎ声がないのである。まさに感情をなくした時代と言うしかない。
人間の感情は生きてることの証明である。それがないということは生きながら死んでるということである。わたしは灰汁の強い男と言われたように感情の激しい男で、それで嫌われたり失敗したりしたことはたくさんある。今日も山道を一人散歩しながら、親友のことを思い出しては泣き、(早春慕情)の曲を口ずさんではまた泣いた。この歳になって恥も外聞もなく自分の感情をおもいきり発散してやろうと考え、感情こそもっとも大事にすべきものだと考えた。そこからいろんな考えや着想が湧き、仕事や人間関係や趣味や芸術に通じていくのだ。
笑うことも泣くこともない人生に何の意味があるのか!生きてる意味がない。
親友からの年賀状に、(車椅子の生活になりました)と書いてあって、おどろいた。電話をいれるとバイクにのって集金してる時に乗用車と正面衝突した、腰を骨折し、入院し、破片になった骨を集めて固めているという。言葉が出なかった。67歳でまだ現役で働き、私同様、女好きでガールハントもしていた。まっすぐな男で会社の上司ともよく喧嘩をした彼が、立ち上がることも歩くことも出来なくなるなんて、ただ涙しかない。見舞いに行くが、彼の顔をまともに見れるか心配である。
昨年の12月末に原田可菜人氏を訪問した。宗像市の田舎で古民家を再生し、(種紡ぎ村)として村つくりをしている人で、(レア仲間)の一人である。一年前に古民家を料理屋として開店したが、集客がうまくできず、赤字、赤字と嘆いておられた。
店に入ると、彼はマキストーブに薪を入れてくれたが排気がうまくいかず、煙が天井を這っていた。2年間もかけて椅子、テーブル、棚、囲炉裏、トイレを一人でつくり、金もかかったのに排気のことに気づかなかった。設備をすれば100万円はかかるという。
彼は半年前に童話「人間この最低の生き物」を自費出版した。副題にーそれは私です。あなたです。?と書いてある。ータイトルがひどすぎるんじゃない。エッセイならともかく子供に読ませる童話でしょう?親が買いますか?とわたしは言ったが彼は黙っていた。?すでに一千部が売れた。ーと彼は言い返した。わたしは自分がすごい変わり者(レア)であることは十分すぎるほど自覚しているがそれに負けず劣らない姿勢に言葉がなかった。自費出版に200万円はかかってるはずである。今年の西日本新聞に彼のことが紹介されるという。民放テレビが放映を頼みにきたが彼の趣旨は入れないというので断ったという。かれの姿勢は立派だと思う。客商売か、自分の生き方を貫くのかのせめぎあいの中でビジネスをやるのはむずかしいだろうが、他人の児でも我が子として育てよう、という考えには大いに同意できるし、応援もしたい。
彼に引き換え周りを見回すと、人の顔、社会の変わりように気味が悪くなる。子供の騒ぎ声、泣き声、はしゃぎ声を聞かなくなった。感情を出すのは悪いことという風潮になれば生きてる表情もなくなってしまうのは当然である。
わたしは逆の生き方を目指している。会社をやめ、家庭もなく、これまで抑制された自分自身を発揮するのだ。作詞した(ふるさと岡垣)を歌い、ユーチューブに出すであろう。濃い茶色のツナギ服の背中、そこに組んだ鉄輪を刺繍し、レア仲間のタイトルを出して世界に向かって歌うであろう。
ガラパゴス村は二つの大都市の中間に位置していて、ベットタウンに近い町であったり、そこからすごく飛び離れたへき地であったりする。秘境の地、と呼ばれることもあるが、概して古参住民は新移住者たちを(よそ者)と陰口して排除する傾向があり、すでに社会には存在しないような旧種族たちがオオトカゲのように山の中を歩き、開発などと称して植物を食い荒らし破壊している。除草剤などを平気で撒き散らして町がきれいになったといって喜び、町役場は人件費が少なくてすんだと同類たちは評価しあっている。
町議会は代官所であり、住民の皆さんのご理解とご協力をお願いします、と町長が顔写真(創価学会の会長のようにいつも広報誌に顔を出す)入りで訴えながら、傍聴席で納税者が私語をしようものなら退場させて独裁体制をとっている。議員の中には議員歴が二十年の者がいて新入り議員を指導し、政治的発言はせずに町長のいうことを聞くように脅している。
町民はカラオケ、ゲートボール、老人会、官製イベントが大好きで、ボランティア活動をはじめ様々な行事、同好会に集まるがそこでの人間関係は日本の開国以前のものでガラパゴス諸島に残っている遺物である。カラオケ教室などにいきなり入会してみたりすると、あの人が入会したためにレッスンが一回しか受けられなくなったとか歌が下手なので調子が狂うなど陰口を叩かれて追い出されることだってある。男と女の関係は主婦老婆たちの大好きな噂話になっていて、神社の神主には女がいて隣町のだれだれだとか、現町議の・・は前町長の隠し子だとか、その妾は・・だとか下半身世界は熱く燃え上がっている。老人会などの団体は町の日頃の買収活動(補助金を出すなど)が功をそうして、町長や役場にはお世話になっていると考え、票を売ることになる。
この町の駅前をみればよくわかる。タクシー乗り場、バス乗り場、駐車場、情報プラザなど利便性ばかりが優先され、喫茶店もなければ食堂もなく、遠来の人が一休みするところが一箇所もないのである。これでも町長は転入者を増やして固定資産税の収入を増やしたい、だから駅南に改札口を設け、道路も通すと言い、線路の下を掘って通路をつくっている。22億円の金を町民からぶんどっている。町長、町議、町職員たちはガラパゴス村から出て外界で生活したことのない者ばかりで自分達が旧人類だということをまったく知らず、高給さえもらってれば歯車作業(システム通りに動く)でもなんでもやるのである。
ここで商売を始めると絶対に失敗するという点では、折り紙つきの町である。一ヶ月前にこの町のメインストリートというべき旧商店街の交差点にから揚げ屋が開店したが、ほとんどの通行人はそこに客がはいっているのをみたことがなく、閉店のカウントダウンが始まっている。二十年前には(寿屋)という大手スーパーがあったが十年ともたなかった。不良品を返品しに持っていくと、わたしに免じてゆるしてください、と店員は頭を下げ、公私の区別が出来ないのであった。ボッタクリ・スナックもあります。一万円札や五千円札を出さないようにしてください。出してしまうと、(大盤振る舞い!)とママが言ってお釣りを返さないことがあります。
さて、今年も残り少なくなりましたが、来年もこのガラパゴス村で生活し、住民と役場の実態調査をつづけますのでよろしくお願いします。