ブログ - 日記カテゴリのエントリ
ほとんど毎日、山中を散歩している。心臓のバイパス手術後、4年になるが、散歩して健康であるのがわかり嬉しい。?(声涸らし 残り陽惜しむか つくつくし)なんて言う句が思い浮かんだりする。蝶やトンボなどの姿も人間たちの利便性のために消され、山道もさびしい。
道で時々、フンコロガシというコガネムシに出会う。イノシシや鳥の糞を抱き、食べている。彼らの大事な食料源である。人間界であれば、気持ち悪い、嫌な人生だと見られるが自然界には偏見も差別、権威もなく本当に平等で自由であるから、生き方の選択肢が豊富で生き生きしている。この前の新聞には人間界において新学期が始まると中学・高校生の自殺が多くなると書いていた。人間界は飢え死にこそほとんどなくなったがすべての世界に序列、権威、閥があり、生きにくく、民主主義・資本主義の導入によって貧富の差、階級制度がその美名のもとに張り巡らされ、絶えず互いに監視し合っている。
昨日、ある人と電話で長話になった。息子には一歳半の息子がいて、その将来や育てかたを論議したという。息子の人生は曲道だったのでそんなことのない人生を送らせたいという。良いことだ。一つのレールを想定して生きさせるというが、多くの選択肢を与え、生き方に階級をつけず自由にさせるべきだと話した。
フンコロガシの生き方であっても立派な生き方である。
二つ前のブログ(愛がないからセックス出来る)に戻ってみよう。そこに登場する男友達にS男と言う名前を付けてみる。71歳のある女はM子にしてみよう。
彼は、M子が老男とセックスしたのだが別れたい、という相談を受け、冷静に聞いた。対応方法も教えたが、電話を置いた後から腹の中がむしゃくしゃして、眠れなかった。好きだったM子に裏切られた想い、冷静さを失った自己への嫌悪、M子への思慕が強くなって、もう関係を切ろうと考え、ケイタイを彼女からを着信拒否にした。一日中、そのことで迷った。M子が自分に電話を入れて、この電話はお客様の都合により通じなくなっています、とアナウンスされたら彼女はどうするであろうか?彼の家は絶対に訪れないだろうから友達に頼んでそこから電話をしてくるか、自分がS男を傷つけたことに気づいてそれを機会に縁を切るか?彼女の判断に任せ、切れるなら切れるに任せようと考えていた。
ところがケイタイを取って、彼女への通話をクリックした。彼女が相談・告白をした時の心理を聞きたかったのだ。彼女はいつもの口調で電話に出、老男とは縁を切ったと言った。彼は自分の心境を彼女に話し、あんたと縁を切ろうと考えた。それで良いか?と尋ねた。「ごめんなさい。わたしが悪かった。あなたは何でも話せる相手だと思っていたのよ。これからも付き合ってください。お願いします。それでも駄目なら・・」と答えた。彼は内心で悦び、復縁することにしたが、以前より彼女への愛が強まったことを知った。これが会社で仕事をしていたころであれば仕事にエネルギーを取られていたのだが、無職の身になるとこんなことになってしまう。
動物の世界でも雄は雌を巡って死闘までするが、人間みたいに愛があるために雌を憎んだり、嫉妬心のために殺したり、付け回したりすることがあるだろうか?興味のある点であるが彼らは性欲も含めて生存が優先されるからそれらは無いと考える。人間達もそれを見習わなければならない。
自然の活動を人間的表現に従い、意志と看做せば、それは存在する。水が高いところから低いところに流れたり、雨が降ったり、風が吹いたり、雪が降ったり、火山が爆発したり、食物が腐って分解されたり、花や野菜が成長したり、腐敗物が分解されて大地に吸収されたり、いわゆる(循環活動)である。人間が死ぬことも世代交代という自然の意志の一つであるが、医療の発達?により、死んではいけないという資本主義の意志によって自然の意志に反する一般理念になってしまった。自然の意志と人間の意志がますます離れてしまった。
それが現代の諸悪の根源であるのに誰も追及し、振り返ろうとはしない。自然は生物の繁栄を仕組んでいると同時に死も仕組んでいるのであるのに、自然は人間だけのためにあると人間は錯誤している。今はその原点を見つめる時代である。熱中症を防ぐためにエアコンを使いなさいとマスコミまでが言うが、エアコンを使うから体温調節の機能が失われ、熱中症になることを指摘しない。マスコミや学界までが資本主義に洗脳されている。今年の夏、わたしの部屋はエアコンがないので38度まで温度が高かった。扇風機でしのいだわたしは69歳であるが、熱中症にかかりはしなかった。
福岡教育大学の公開講座・基礎物理学を受講したことがあります。社会や政治、人間心理などを物理化学的に分析出来ないか?というのが参加の目的でした。そこで教授に質問をしました。エネルギー保存の法則があるのであれば、人間は老化するとどうしてパワーが落ちるのか?という質問でしたが、専門外なのでわかりません、と言う答えでした。
(エネルギーからみた愛と性)、それをわたしなりに分析してみます。愛と性を言葉で分けているからわからなくなる。どちらも親和力というエネルギーである、と考えればそれは一定の量であるのだから、愛が十分であれば性は減るし、不十分であれば増えることになる。そのように考えてみれば、前ブログのテーマも理解できる。
私は69歳です。政治、社会、人生のことはほとんどわかりますが、未だ女の心理でわからない部分があります。風俗嬢もふくめておよそ50人ほどの女達と性交渉がありました。そこでは女と男の心理の違いが見えてきました。その中の一つは(あなたとの愛を大事にしたいからセックスはしません)と言う言葉でした。記憶してるだけ、そしてそんな話になった場合を含めると5人の女がこの言葉を出しました。
一般的には愛があり、その延長線上に性交渉があると信じている場合が多いのですが、現実はそうではありません。あなたとセックスをすれば愛が失われるからしたくない、と言う返事に出会い、いや、セックスをすれば愛も強くなるのではない?と言い返しても彼女らは納得しません。結局、あれはセックスをしたくないための言い訳ではないか?と考えたりしましたが、いつの間にか彼女らはわたしの生活の中から消えていきました。
ある男友達の話です。彼は家庭内離婚の状態でしたが、71歳のある女と知り合いました。彼女は亭主を10年前に失い、それからは再婚相手を求めて男探しを始めましたが、実を結びませんでした。妻子持ちの男性は対象外でしたが、その男と親しくなりました。セックスは最初から拒んでいましたが、彼は彼女が欲しかったのです。(わたしはあなたは好きなの、だけど奥さんがいるし、セックスをすれば愛が消えるからしない。セックスがないからあなたとは何でも喋れるし、心の恋人なのよ)といつも言うのです。彼はその言葉を信じ、彼女の家に行っても彼女の体を触りませんでした。
ある夜、電話で二人は話していました。「わたしはあなたに秘密があるのよ」と彼女。「ぼくにだってあるけどそれは誰にも話さない」と彼。それがきっかけで彼女が話し始めた内容は驚くべきものでした。
実は二か月前に彼女に結婚相談所の所長から電話があり、男を紹介したいということでした。彼女は了解し、老男と会いました。その前に、何人かの男から交際を求められているから付き合っても良い?と彼女は尋ねましたが、家庭内離婚の男は拒否していました。二回目のドライブで彼女は老男とホテルに入り、セックスをしましたが、余りに彼が激しすぎて腰を痛めました。その性行為の内容を電話で事細かに話しました。(あれは遊びだったの。わたしは十分満足したのでしたくない、と言うのに老男は執拗に求め、また、会おう!としつこく電話を掛けてくる)と言うのです。警察に訴えれば良いじゃないかと彼は言いましたが、彼は次第に腹が立ってきました。秘密にしてることが耐えられなくなったのであろうが、セックスの内容まで何故、事細かに話をするのか?俺の心を踏みにじっていることに気づかないのか?
彼女は彼の嫉妬心を理解しませんでした。単なるプレイであったからです。
それから、彼は彼女からの電話を着信拒否にし、絶交したというのです。
これは非常に難しい内容です。
わたしがたどり着いた結論は次のことです。男は女とセックスをすれば女の心まで征服したと考えるが、女はそうではない。心と体は別だと考えている、ということです。ストーカーのほとんどは男である、と言うのは一度セックスをしたからにはその女は自分のものであり、ずっと付き合える、と彼は考える。体を許しておきながら自分を拒むのはけしからん、と考え、いつまでもつきまとい、それが事件になるということです。
男と女の本質的な違いがストーカーを生むのです。
仲の良い夫婦でも、妻が夫に(そんなに会社の仕事でストレスがたまるのなら、女遊びでもしておいで)と言うことがあっても夫が妻に、男遊びでもして来い、と言うことは絶対にありません。男女の心理は難しいけど、取り組みがいのあるテーマです。
30分ほど前に見た夢は鮮明に残っている。海岸に近い工場あるいは工事現場であった。薄緑に塗られ、滑り止めの線の入った鉄板が見え、それが建物のの底や壁になっていた。静かな波が寄せ、その光景は建物の中や作業員の姿、浜辺、工場の並びとあたりを映し出し、移動しながら画像になって見せてくれた。いや、わたしがヘリコプターに乗ってその光景を見ていた。そこで何が起こったのか日常的光景なのかはわからない。
わたしはヘリコプターから降り、建物のそばに立っていた。さて、家に帰ろうと考えたが、自分の家がどこにあるのか思い出せないし、どこに道路がありどこに電車が走ってるのかもわからない。そうだ、ここは神奈川県相模原市の安アパートに住んでいた時にタイムスリップしているのだ。そのアパートの隣室に住んでいた。・・子、とその子供を訪ねなければならない。イトーヨーカ堂、銭湯、団地を回る道の先にアパートはあるが、25年前に訪れようとした時は道を忘れ周りの景色も変わっていたので、迷ってしまった。イートーヨーカ堂の裏手なのだ。まだ、彼女は住んでいるというより、その時代に俺は戻るのだ。そこに本当の幸福があった。
そのあたりで目が覚めてしまった。・・子の元に戻る夢はよく観ていたが、久しぶりで会った。
彼女と三歳の息子、子連れ女はわたしの意識の重層、その中の一場面で生き、現在も生活しているにちがいない。野生動物や植物であればそれを再生する能力は持っているが一般常識に洗脳された人間は失ってしまった。テレビやラジオ、スマフォなどの再生装置を使うことでそのうち戻り、観れるようになるかもしれない。
わたしたちは見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、味あうものなど自分が感じるものしか存在していないと考えている。感じられないものはたくさんあり、それは膨大な量になり、知らない(存在しないと思っている)世界の方が多い。電波は感じないし、超音波も感じないし、匂いも数十メートル先までしか感じないが、テレビ受信機は電波をとらえて画像に変え、超音波もコウモリやMRIなどは感じて形として認識し、野生動物は数キロメートル先のものの匂いを感じて正体を読み取ってしまう。
そのことを知らずに人間中心主義・自己中心主義に陥っているから物事を見誤ってしまうことが多い。違う側面から、例えば自然界という側面、相手側の側面から分析してみると実態がはっきりわかってくる。わたしは野菜作りをしているので今年の自然の変異がよくわかる。タマネギは半数以上の農家で病気にかかり、葉が黄色くなり、芯が硬くなってしまい、ビワは寒波にやられてほぼ全滅になり、柿の実は成熟する前に落下し、東南アジアではバナナが病気にかかって収穫できなくなっている。昆虫類は二十年前の十分の一以上に減っている。
そのうちに野菜が出来なくなるのではないか、と心配する。除草剤を安易に使って雑草を殺し、連鎖した虫まで殺しているのだから・・、利便性を見直さなければならない。
野菜作りや野山の散歩をしていると、いろんな発見がある。雑草は虫に食われることはないし、病気にかかることもなく、冷害や日照りにも強い。被害にあってもわずかである。その代わり、栽培されてる野菜の多くは虫に食われ、病気にかかる。今年は病気に強いはずの玉ねぎも葉が黄色くなって病気にかかり、ビワは冷害をうけてほぼ全滅であった。栽培用の土に撒いた白菜もキャベツも芽を出さず、雑草に埋められた。
雑草のように逞しく、と言う言葉は的を得ている。雑草は葉や茎が硬くて食べられないように身を守り、悪天候にも強いし、虫に食われないように分泌物を出している。我が家のドクダミにはその強さと繁殖力には驚かされる。ドクダミはかじられることもなく、畑の全面を埋め尽くし、野菜は隠れてこっそり生きている。産直店に出せばドクダミは少しは売れるのでわたしにとってはまったく手間のかからない財産でもある。
雑草のように逞しく生きよう!
山道の小石の背負う人生よ
昨日、金毘羅山の裏道を散策しながら、坂道に転がった石に目をとめた。上記の句が浮かび、石の一生に人間の人生を重ねた。火山の爆発で溶岩が産み出され、冷えて塊になり、陽光や風、雪、雨に育てられて、変化・成長し、角が取れ、丸くなり、小さくなり、砂や土に戻り、最後は生命体と同じく元素になって生命体を作り、無機物に流転していく。生命体と変わらぬ生涯を送り、人生と呼んでもおかしくない。
その人生を活けてみようと考えた。(生け花)はすでに文化になっているが、(生け石)というのはない。(水石)と言って石を磨いて飾る文化もあるが、石そのままを鑑賞する習慣はない。お盆の中にいろんな人生の石を置き、俳句を添えて展示してみようと考えた。
町営施設を借りれば費用も安いし、手間も時間もかかりはしない。
さて、どんな反応が返ってくるであろうか?
(レア)であるからにはほとんど反応がないかもしれないが、それが(私ー石)の人生なのである。
振り返ってみればあんな子供時代があったなんて信じられない。親達が出払った昼間、隣近所の幼友達の家に行き、かくれんぼやお医者さんごっこをして遊び、親の引き出しの中からエロ本やペッサリー(女性用避妊具)を探し出したり、ずいぶん悪そうをしたもんだ。小学校に入る前の時代が一番楽しかった。
子供たちが夕飯のために帰宅する時はお互いの背中を叩いて、叩き合い、(バカ、カバ、・・屋、お前の母さん、デベソ!)と叫んで、別れた。(さげすみ)とは異なるニュアンスがあった。・・の部分は職業差別になるので書いていないが、その頃にはさげすみの意味合いなどありはしなかった。子供心の面白半分さであったが今の時代では言い訳にもならない。
時代がすべてを事細かに仕分けし、白黒をつけすぎるので、余裕をまったく失った。部分ばかりに気を取られて全体を見失ってしまっている。部分ばかりではなく、全体を見る目が欲しい。