ブログ - 日記カテゴリのエントリ
一昨日の朝方、玄関のチャイムが鳴った。いつも寄って行くO君か年金の会のM君だろうと予想して行ってみると、スタイルの良い若い女と初老のネクタイ姿の男が立っていた。
「いきなりチャイムを押して迷惑をかけました。良いプレゼントがあるのですが、いかがでしょうか?」
女優にしても良いような美女は魅力的な笑みを浮かべて私に言った。
(エホバの証人)だとわたしは直観した。彼らは二人連れで訪れ、美女をマスコットガールに仕立てて訪問し、道を歩きながら、家の庭の花々に眼をむけながら、(この世は天国)だと言わんばかりの表情を浮かべながら、移動していく。
「御覧のようにうちには果樹も野菜もじゅうぶんにあるのでプレゼントに不自由はしていません」
「そうですね。広くて素晴らしい庭ですね」
彼女は庭や木々を見回した。
「ところでご主人、聖書を読まれたことありますか?」
初老の男は静かに口を開いた。
「宗教の考え方には興味がありますが、宗教団体には興味はありません」
「そうですか、神についてのお話なら、(王国)に来られてお話を聞かれたら満足されますよ」
「ものみの塔、の方ですね?」
「そうです」
「時々、こうして来られます。‥さんも来られました」
「知っています」
「一神教、ヨーロッパではキリスト教ですが、それは他の宗教を邪教、悪魔と呼んで攻撃しましたよね」
「うちではそんなことはしません」
「けど、キリストしか信じない一神教ですよね?」
「そうです」
「かれらが起こした宗教戦争、宗教裁判の被害者はベトナム戦争、イラク・イラン戦争、イスラエル独立戦争も含めて計り知れない数ですよ。原因は他宗教を廃絶する一神教にあるのです。それにその宗教を運営する牧師、ローマ法王などはその団体の寄付金で生活しているから神のためではなく自分の生活の為という意図を持っているのですよ。キリストはすごく純粋な気持ちで布教活動を始めたのですが人間がかかわると利害がからんで政治の世界と同じになるのです}
マスコット・ガールの美女は絶えず笑みを浮かべているが、初老男は門扉を挟んで私に近寄って来て、真剣な眼になった。
「わたしたちは他に仕事を持ちながら活動しています」
「あなたたちの組織の運営はどんな仕組みになっていますか?絶えず(王国会館)に常駐している専従者がいるはずですし、ピラミッド型の組織になってはずです」
「ご主人、次に約束してた家がありますので、この話は次にゆっくりさせてください」
初老男は言い、二人とも背中を向けた。
たぶん二度と訪れないだろうが、わたしは論争を楽しみにして待っている。
警備会社で働いていた頃、格闘技家の前田日明の警備をしたことがあった。天井に一個の電灯がついただけの控室であった。彼はパンツ一枚の姿で独り、試合に備えて、気持ちを整えていた。時々体を軽く揺すったり、両肩を回したりしていたが、椅子に座りぢっとし始めた。沈黙と闇がリンクした。わたしは5メートルほど離れた位置で彼を見ていたが、自分が警護する立場であることをすっかり忘れ、彼を観察していた。闇の中にすごいエネルギーがオーラを放っていた。真剣勝負を控えていたのだろう、殺気が迫って来た。
昨日、戸畑のウエル・戸畑と言う大型施設でカラオケ発表会があり、わたしは出演することになっていた。ステージで歌う10人前までが楽屋裏の待合室で順番を待っていた。音響機械があり、マイク渡しや進行係など関係者がいて、出場者はステージの方を観たり、小声で歌を歌ったり、緊張して黙り込んだり、仲間としゃべったりしていたが、そこも同じく天井にわずかな明かりが点いているだけの殺風景な闇であった。
わたしはステージに進む段になって歌詞を思い出そうとした。が、頭の中は真っ白で何も無かった。ステージに立てば、目の前のモニター画面に歌詞が出ることを知っていたのでそれを見ることにした。歌い始めると、自分の手が歌詞の世界に合わせるように動き、(千鳥の舞)という物語の世界を演じ始めた自分を知り、安心して歌っていった。
歌い終わると、カラオケの先生が立っていて、あなたを見損なっていたわ、と言ってくれたり、先輩が下腹に力が入っていなかったよ、などと忠告してくれて嬉しかった。
帰宅すると、読んでいなかった朝刊を読んだ。9人を殺した座間市の殺人事件のことが載っていた。殺人者の楽屋裏は彼の一間の部屋であるが、9人の死体を箱の中に入れたまま、逮捕される前の日まで寝起きしていたのだ。金が目的だったとか、暴行が目的だったとか供述しているが、死体を埋めるとか川に捨てるとかしてなぜ証拠隠滅をしなかったのか不思議である。彼にとってそれは死体ではなく、幸福な生活を共にした記念品であったに違いない。命を共にした絆の象徴であったのであろう。
私の部屋には4箱の昆虫箱、カブトガニ、ハマグリなどの貝が壁に飾ってある。アゲハチョウ、紋白蝶、カミキリムシ、クワガタムシ、カミキリムシなどが羽根や脚をピンと張ってまるで生きたもののように並べられている。40年前、東京から戻った時に採集したものである。
私の青春を共にした大事な記念品なのである。それらは色も落とさず、当時に姿のまま箱の中で生き続けている。わたしは思う。殺人者は私と同じように、八人の女たちの姿を、出来れば、当時のままの姿で保存し、いっしょに生活していたかったに違いない。私の母が、自室で孤独死をしていた時、葬儀屋に頼んで死装束に包んでもらい、葬儀場に運んでもらったが、わたしは母の死に目に会い、母と一晩過ごしたかったといつも悔やまれる。
生命が死んで物体物質に戻ると言う事は生命が生まれるのと等しい出来事なのである。昔、(水のないプール)というエロ映画監督の作品があった。そこでは女の下着を収集した男が部屋の中で、たくさんデザイン豊かなパンティやブラジャーに囲まれて、天国にいるような生活をいていた。彼は母の胎内にいるような気持であったのだろう。男は誰でも狩猟者・収集家のDNAを持っているが女には少ない。性同一障害を始め、時代や人間を見直す転換期に来ていると思う。
神奈川県座間市のアパートで9人が殺された事件が、世間を驚かせている。殺された男女のうち、8人は自殺願望であった。二週間でそれだけの人間を殺し、犯人は金目当てとか暴行が理由だったと供述しているが、私はそうは思わない。殺すことの快楽にはまったと想像するが、年間8万人もの若者が家出をし、ほとんどが行方不明という事実にわたしは自分が19歳だった頃を思い出した。
小学生の頃から、テスト責めの学校生活を送らされたのに、結果的に第二志望の大学受験にも落ちた。吃音矯正の学校にも何度も通ったが治らず、体は虚弱で、恋も出来ず、就職も考えられず、どうしたら良いのか全くわからなかった。断食道場で一週間の断食をしたものの、食養生が出来ず、餓鬼のように貪り食ってしまった。自殺しようと考え、高校の修学旅行で,好きな女の写真を撮った箱根に家出して行った。もちろん彼女と口をきいたこともなく、片思いであったが。
睡眠薬とウイスキーを飲み、首をつれば苦しまずに死ねると勝手に考えていた。箱根の別荘の空き家に侵入して、寝泊まりしていた。公衆トイレに入った。薬局で買った睡眠薬を飲み、ウイスキーを飲んだ。ロープに輪を作って、吊り下げ、首を入れた。自殺の実感がわかず、何だかバカくさくなった。
もう一度考え直し、思い迷った。結論は、自分を殺さなくても、いつか事故にあうか、病気になるか、年老いて死ぬのだ。無理して死ぬことは無い、ということであった。
それ以来、いろんな事に出会ったが、セックスもたっぷり行い、酒を飲み、美味しいものを食べ、結婚して子供をもうけた。自殺しなくて良かったと思う。
70歳の今は、自殺などしなくても(死)が向こうから訪れ、自分で死ぬ必要がない。若い人に言いたいのは考え方次第で苦悩もどのようにでも変えられるということ。今と同じ状態がいつまでも続くことは無いのでもある。
DV,レイプ、セクハラ、パワハラ、イジメ、暴言を始め、過労死も含めると、その言葉は反暴力を意味し、時代は反暴力の周期に入っている。4,50年前までは暴力の時代であった。学生運動の機動隊に対する火炎瓶、投石、ゲバ棒闘争、全共闘内部のリンチ殺人、大学の運動部のシゴキ殺人など今では考えられない時代であった。最後は浅間山大量殺人事件で終わった。街並みでは肩が触れたというだけで因縁をつけた、といって殴り合いが始まった。プロレス、格闘技、ボクシングなどの全盛時代でもあった。
わたしは大学の空手同好会に入っていた。同好会だから軽い練習だと考えていたのが大間違いであった。腕立て伏せの姿勢で拳骨をコンクリート面に押し付けて地面を張ったり、巻き藁を拳骨で叩いて血まみれになったり、一撃必殺の訓練であった。武具をつけない実践の試合もあり、一つ間違えば死が待っていた。練習が終わると、先輩の胴着を畳み、お茶を入れ、食堂に行って給仕をした。週に一度のシゴキがあった。(てめえら、ちんたらちんたらしやがって先輩に対する態度がなっとらん!)と二年坊の小田切の声の元に、歯を食いしばれ、腹を締めろ!と言われ、整列させられた13人余りの新入生のみぞおちが正拳で殴られ、隣の者のうめき声が聞こえると、わたしの体全体に痛みが走った。
(おめえらが可愛いから強くなってもらいたいんだよ)もう一人の二年坊が言った。
入部した初めの頃は血尿が出ていた。
3か月ほど経つと、わたしの気分は人に近づく時、大幅に変わっていた。授業の教室に入るとテンションが高くなっていて、私の言葉に反論する者に眼を向けると、相手は黙り込んだ。電車に制服姿で乗っていて、襟の空手のバッチを見詰めるるサラリーマンを見返すと相手は視線を外した。人とすれ違う時はこの態勢から後ろ蹴りを食らわせば相手は倒れるだろうと予測したり、周りの者が仮想的になることがあり、コンパで酒に酔ってすれ違いざまに通行人に蹴りを入れたこともあった。仮病の診断書を出して、6か月ほどで退部したが、その際に退部金を払わせられたり、片方の眉を剃られたりした者もいた。
今、この片田舎の町通りを歩いていると、爺さん、婆さんたちが呆受けたような顔で歩いている。幸福なのか不幸なのかわからない顔で、よろけそうに見える。その中の一人がわたしなのである。
学生運動の始まる二十年前には太平洋戦争があり、何百万にも日本人が死に、外国人も同じであった。世界的に見ても戦争は2,3十年の周期で起こっている。
台風や地震、火山の噴火と同じく、人間社会の戦争、暴力にも周期がある。北朝鮮が戦争を起こす気配を見せているのはその一つであろう。戦争や暴力はエネルギーの一つであり、無くせないもであるから、構えと備えを持つべきである。
都会生活を離れ、菜園作りや山道歩きをしていると考え方が変わってくる。普通の人は土は汚いものであるから、アスファルトやコンクリートにすることがきれいになることだと考え、それを望むが、わたしは違う。土の有難さ、偉大さがわかってきたのだ。畑に野菜の種を播いてみると、芽が出る前に土に含まれていた雑草の種が芽を出し、後から芽を出す野菜を押しのけたり、日光を遮ったり、あるいは蔓を伸ばして巻き付き枯らしてしまう。初めの頃は腹立たしさを覚えていたが、今は、土は差別なく植物を育ててくれ、土の中には窒素、リン酸、カリなど養分が十分に含まれ、母乳のようなものであることがわかる。
地面を歩いてみるとまた違うことがわかってくる。踏むことの反作用である衝撃が土に吸収され、すごく優しくなっているのだ。それに地面から息が出て、自分の息と互いに吸い合っていることがわかる。これだけでも幸福感が湧いてくる。
強い除草剤を播くと、その後には何年たっても地面は植物の芽を出さなくなる。怖いことである。地球上の生命滅亡に通じることなのだ。
小学校に入学した時から、テストに責められ、進学中学校で自分の頭の悪さを知らされ、第二志望の私立大学に入学した。初めての授業に出ると、満席で座れず、立って講義を聞いた。教授はマイクを使ってテキストを棒読みしていた。空手同好会に入り、20年間も悪夢にうなされるリンチを受けた。卒業式にも入学式にも出なかったから、卒業してるかどうか関心はない。教員や文部科学省の役人達に飯を食わせるための教育制度でしかない。
上級国家公務員に合格しただけで、社会や人の心もまだわからない役人になぜ大事な教育をまかせるのか?まったく、わからない。小中学校の段階から民間に参入させ、個性を見出し、その方向に進ませるべきである。従順な性格の者には公務員(その制度は要らないと思うが)、闘いの好きな者には自衛隊や警察官、感受性の強い者には芸術や文化、芸能界、知的な冒険の好きな者には研究者や学者など子供たちの土壌にあった世界に進ませるべきである。
一律の試験や学歴で人間を判断するなんて、人権侵害もはなはだしい、と思う。
5年前の65歳まで、バイクに乗っていろんな街を走り、いろんな家を訪ねた。久留米、大牟田、柳川、大川など3時間もかけて走り、ビジネスホテルに泊まって、NHKの契約取りの仕事をした。
今、布団から起きたばかりだが、二時間前に観た夢を思い出した。古びた板壁の小さな戸建ての家、それがぽつりぽつりと離れて建っていて、確か大牟田の炭鉱住宅を訪ねた時の印象がよみがえったのであろう。庭や空き地に,花芯が赤く、周りが桜のような花があちこち咲いていて、私は見回しながらあの花を自分の庭に植えてみたいと考えていた。すごく幸福な気持ちであった。丈は腰のあたりまで低く初めて目にする花であった。
私が近づいて花に触り、調べようとすると花弁は鮮やかさを失い、萎むようであったが、目を辺りに向けると、通り道の角や下り坂、あちこちの家一軒一軒の家に咲いていた。私は見とれていた。
福岡市の郊外のそんな借家を訪ねたことがあった。突然の訪問に初老の主婦は驚いた様子もなく、契約のお願いをすると、一か月分の1345円を払い、口座振り込みの書類に押印してくれた。
半坪ほどの上がり框にわたしは屈み、部屋を見回すと、ちゃぶ台の上の大きな皿に総菜が置かれ、空の茶碗と箸が帰って来る家族を待っていた。主婦は口数の少ない、穏やかな人であった。
ラジオから歌謡曲が流れていた。鶴田浩二の静かな歌であった。どこか戦争の名残を匂わせる声音が私の心に染み、今でもその時の印象を忘れはしない。
近所に住む男友達は60歳過ぎの独り者で、老いた母親の面倒を熱心に看ている。彼はわたしにいつも同じことを言う。この町を歩いていても、老人ばかりでみんなしょんぼりしていて元気がない、と。わたしはその通りだと答えるが、その印象は実は彼と私の心象に原因があるのである。わたしが町を出て、いろんな街や農漁村を訪れた時、街並みは仕事の意欲に満ちた私の心の鏡に輝いて映っていたのである。
近所に石田さんと言う69歳の男性が住んでいる。定年退職後、自然農法による野菜作りを始めた。自然農法にに関する本を10冊ほども買い、読破し、山の麓の端の土地を借り、始めた。山の枯葉を集めて、積み上げ、自然分解して完熟するまで3,4年ほどかかったが、種を播き、植えてみると、大根、白菜、キャベツ、ナス、キュウリなどすべての野菜が通常の二倍ほども大きく成長した。調理すると、格別な味を出してくれた。肥料を全くやらないから、虫は集まらなかった。虫たちは腐ったものに寄って来るのである。バスタブを置いて雨水を貯め、水をやっていた。
半年前に木材チップによる農法をネットで知った。近所に木をチップにしている会社があり、置き場に山盛りに放置していた。火で燃やすことが禁じられているので造園業者たちは刈り取った木をそこで買い取ってもらっていたのだ。
彼はチップをもらってきて、畑の表面に手の平位の厚さで置いた。今年の夏は日照りが2週間も続いた日があり、畑の野菜が心配になった。行ってみると、野菜は枯れることなくチップを置く前より大きくなっていた。原因は野菜の根が5メートルも地下に伸び水分を吸い、中に含まれた養分を吸っていたのである。チップは菌を発生させ、土をスポンジ状に変えて雨水を蓄えたのである。酵素を出し、化学反応でチッソ、リン酸、カリなどの元素を補給していたのである。牛やヤギは肉を食べないのに肉付きの良い体をしている。彼らは酵素の作用で消化器官が草をたんぱく質に変える機能を持っているからだ。
私が石田さんから話を聞くと、土は肥料もやらない綺麗な自然の土が良いと言う。一般的には堆肥にして肥料をやり、ミミズが出る黒土が野菜のためには良いというが、そうではないと言う。昔、稲を刈り取って、枯れた稲を田んぼの中にすき込んでいた。それが石田さんの農法である。
私は何年か前に彼から自然農法の話を聞いて、山の枯葉を拾い、畑に埋め込んでいたが、すっかり忘れ、一般的なやり方でやっていた。種を播くと虫に食われ、草だらけの畑になっていた。今は彼の農法に従ってやっていて、効果を期待している。以前に撒いた肥料が消えるには年数がかかり、菌は肥料が残っていると繁殖しないと言う。
詳しくは、ネットで検索して、(炭素循環農法への転換)に書いてあります。
安陪の衆院解散、前原の民進党分解、小池の新党結成など、不可解な動乱に対し、新聞やテレビを観てる国民のほとんどは政治に絶望どころか腹立たしさを覚えている。70歳になった孤老が、今さら結党など?と、人は変に思うであろうが、私の書くことは自分だけでなく読者に引き継がれるかもしれないと言う希望を元にしています。
基本的には民主・資本主義の進展はすでに変えようもない。だが、少し、自然界を見直し、環境破壊をなくし、政治・社会の仕組みを自然界に模倣し、人間社会を含め異種混合・多様性に満ちた世界に変えていく。
1ー政治家が立候補する場合、費用はすべて国庫負担にする。議員の世襲制はなくす。政治家や公務員の犯した犯罪は一般人の二倍に科する。政党助成金、企業献金など政治家に提供する金はなくし、党員負担の党費で運営する。国民に投票を義務付け、ネット投票も始める。。
2?天皇制の存続は国民投票で国民に問う。
3?自衛のための軍備は維持し、必要によっては拡大する。総理大臣が宣戦布告の権利を有するが、勃発前に時間的な余裕があれば国会で侵略か防衛なのかを慎重に審議する。アメリカとは安保条約を見直し、対等関係にする。米軍基地の治外法権をなくし、基地を縮小する。核に対しては廃絶運動を拡大するが、無理だと判断すれば核の保有する。NHKの受信料は廃止し、放送法の中からNHKに関する法律を削除する。
4?法人税を引き上げ、大企業の内部留保金を吐き出させ、国民の購買意欲を高めて、死んでいる金を活かし、国内で循環させる。消費税はぜいたく品のみに掛ける。
5ー教育制度の自由化については文部科学省の教科書の検定制度をなくし、民間が義務教育にも自由に参入出来るようにする。人間の個性を重視する。学校の教育現場を国民に開放する。公務員試験を廃止し、すべての公務を可能な限り、民営化する。
以上がこのブログの第1です。
今(夜)、部屋の三方の窓の外から数匹の鈴虫の鳴き音が起こり、鳴き続けている。庭の楽団みたいに一晩中、鳴き続けるであろう。蟋蟀のコロコロと転がるような鳴き音も混じってくるが、鈴虫の甲高い高貴な音にはかなわない。
何だかロマンチックな気分になるが、また悲哀感が感じられいる。夕食の前にウイスキーを三度、喉を鳴らして飲んで、良い気分だが、心臓に異和感が生じている。5年前に心臓のバイパス手術を受け、退院時に、執刀医から、酒と煙草は絶対駄目ですよ、と告げられていたからだ。酒を飲むと不整脈が出ることは体験していたが、夕食前に酒を飲む癖がついてしまった。
集金の仕事で、宗像市自由が丘を回っていた時のことを思い出した。二か月に一度、その老婆からお金をもらい、世間話をまじえた。勝気な人で世間を批判する会話が多かったが、時々、(死んだが勝ち)言った。その言葉は私の心に張り付いている。死ねばすべての責任から解放される、という意味合いだろう。もう10年前のことになるから、彼女はあの世で(そうじゃない。やっぱり死んだが勝ちだったのよ)を言ってるかもしれない。
死は否定も肯定も出来ない現象である。わたしの心臓が止まったとしてもあの鈴虫、あるいはその子供たちは今のように庭で鳴き続けているだろう。それで良いのだ。