ブログ - 日記カテゴリのエントリ
昨日の日曜日、二週間ぶりに教会に行った。いろんな会の行事が続いて行けなかっのだが、みな、体でもこわしたんじゃないか?と思って心配してた、言ってくれた。(花の日訪問)で家に行って、手紙を投函したの、と女信者が言い、わたしはポストに無かったと、答えた。ある人物が持ち去った、とわたしは判断し、事情をうちあけた。たぶん、その人物はこのブログを読んでいるに違いない。
賛美歌を五度、歌い、聖書を読み、神父の話を聞き、信者達と談笑し、良い一日だった。(皆さん、何かありませんか?)と最後に神父が言った時、わたしは用意していた質問をしようかしまいか?と迷った。誰も質問せず、神父が切り上げようとした時、手を挙げた。
「唐突な質問だと思いますが」と言って、神父の顔色を見、「創世記には神が天地を作り、生命を作ったと書いてありますが、進化論はそうは書いていません。進化論にたいして、どう思われますか?」と言った。
中年の神父は平静な顔で、「宗教の見方の見方のちがいでしょう」とこたえ、わたしは自分の考えと同じであることを知った。その答えを予想していたのであった。
以前関わっていた宗派は、進化論はまちがっている、聖書の方が絶対、正しいと主張していた。考え方に柔軟性がなく、すごく硬直し、輸血問題、でマスコミを騒がせた。わたしは彼らの言ってることが正しい?と考えていたが、宗派によって聖書への見方が、こんなにも異なるのである。先ほどの神父は、聖書に書いてあることは事実ですか?と以前、訊くと、聖書は物語的に書いてあります、とこたえ、わたしは同感していた。
ようするに、宗教と科学は異なる宇宙の中にいるのである。視点が異なるのである。宗教は神や仏を持ち出し、科学はエネルギーや数式を持ち出すが、実は同じことを伝えようとているのではないか?
量子力学では多次元宇宙を述べている。人間は自分の感知できるものにしか存在を認めないが、感知できなくても存在しているものはたくさんある。電波や超音波など限りなくある。だから、神は、神の宇宙にいて、私たちは一般的な状態では感じられず、知れないのであろう。それは霊界とも言うが、人とは平行宇宙の状態なのであり、信仰によって近づき、交われるのではないか。
神はあなたたちを愛しておられる、とキリスト教は述べる。わたしは、始めの頃は理解出来なかった。自分なりに解釈し始めた。自然治癒力を持ち出してみよう。手が傷つき出血すれば、何もしないのに血小板が活動しはじめる。出血を止め、傷ついた部分は塞がれていく。創世記で、人に、生きよ増えよ、と書いてあるのは、神の力が働いて治癒をしている、あるいは体の物質の化学反応によって、治癒のベクトルがは働いているのであろうか?
興味の尽きない命題が私の前に現れている。
今日の朝刊に、ひきこもり支援(?)施設に強制的に連れて行かれ、高額の金を払わされた、という記事が出ていた。ジョーク?ではないか?と考えながら読んだが、現実であった。何とも知れない世の中になったなったものである。
わたしは五十年前、引きこもりであった。原因は単純であった。小学校の頃から、教育ママにしごかれて、受験勉強に青春を奉げたのに、地方の二流大学の試験に落ちた。燃え尽きて、自律神経失調症になった、ドモリが治らない、父母の仲が悪く、父はアルコール中毒で女狂いであったなど、思い返せば確実に分析できた。その頃、自立しようとして断食道場に行って、一週間、断食をしたが、食欲に負けてしまった。部屋に籠り、太宰治の小説を読んで、自分の仲間がいることを知った。小説家をはじめ芸術家なんてほとんどが、引きこもりなのである。その頃、わたしは、お菓子を買って食べ、断食した分を取り返そうとした。夜になると、外に出て、彷徨した。新婚夫婦の部屋の覗き見をした。半年間ほどそんな生活をし、人生の曲がり道を遠回りしながら生きて来た。今は、死、という解放を待っている。
私の身近に、引きこもりの女がいるが、放置している。引きこもり、が心地良いから、そうしているのである。
引きこもりは、良い経験になっていた。今は、野菜作りに精を出し、町のいろんな会に出て、言いたいことをしゃべり、時には酒を飲み、カラオケを歌っている。引きこもりなんて、体が許さなくなっている。
中には一生、引きこもりの人だっているだろうし、それを無理に連れ出して何の効果があるだろうか?時間が薬、なのである。引きこもりの人生、それもまた、人生である。
昨日は、障害者のカラオケ練習会だったので、わたしは三人の障害者たちを迎えに行った。家に寄って拾うと、エアコンの入った町営の建屋に入った。その中で、お茶を飲んだり、喋ったり、歌ったりして、一日を過ごすのだ。常々、働いている人達の税金で過ごさせていただいていると考え、有難く思っている。
昼ご飯はいつも弁当を持って行っていたが、作るのが面倒になり、コンビニでおにぎりを二個買うようになっていた。店内に入ると、いつもは一個、百五十円であったそれが、二個で二百円と張り出してあったので、儲けた気持ちになった。
昼になって、コンビニで買った弁当を食べ始めた。わたしはおにぎりを食べ始めたが、いつまでも具の鮭に歯が出会わないことに気づいた。えー、鮭は入ってないのか?と考えていると、やっと鮭に出会ったが鮭の味はなく、変な味であったが、呑み込んでしまった。もう一人の仲間がおにぎりを作ってくれていたので、それを貰って食べ,もう一個のおにぎりは食べなかった。
帰宅すると、胃の具合がおかしく、むかついた。
一個、百円のおにぎりが原因であった。
そこで、考えた。
やはり、あの出来事は反省されて、改善されてはいなかった。
二十年ほど前のことである。コンビニ漬けの主婦が自炊をせずに、コンビニで弁当を買って、家族に食べさせ、子供にアトピー患者が出た、という話である。今は、お茶でも菓子でも、日用食品はコンビニやスーパーで買っている。その中にどんな有害物質が入っているか?マスコミも厚生省も報道しない。病人が増えれば医者や製薬会社は儲け、業者らは仕事にクレームを付けられないように、政治献金をし、政権の応援をしている。金で、口封じをしているのだ。水俣病をはじめ、社会保険庁を含め、これまでいかに国が国民を食い物にしたかは史実として残っている。改善されず、相変わらず同じことを繰り返している。
アヘン戦争の歴史をみれば、イギリスは中国にアヘンを輸出し、それで儲けた。中国がそれに反発したから、イギリスは戦争を仕掛けて来たのである。
国家はある意味で、犯罪者集団であることを忘れてはならない。社会の動きや出来事を調べれば、国家が仕掛けた楽屋裏が見えてくる。
年金機構から、通知が来ていた。開いてみると、月に5万円の支給額であった。この国は、奴隷のようにこき使った挙句、死ね、と言っている。
若い頃から記憶力も悪かったが、加齢とともにそれが進行している。この日記に打とうとしていた内容をすでに忘れ、思い出すのに苦労をした。この前は、置いていたはずのケイタイがなくなり、どこかに置き忘れたと考え、どうしよかと考え込んでしまった。でも、待てよ、家の中であれば固定電話からかけてみればわかると、考え直しかけてみた。
かけて見ると、どこかで着信音が鳴り始めた。行ってみると、浴室の中であった。電話がかかって来ると予想して置いていたのだが、かかって来ないので放置していたのであった。
でも、忘れるということは、無くなることと同じではないか?と考えた。認知症がひどくなると、妻や夫、子供の識別さへ、出来なくなり、自分が自分であることさえわからなくなるし、過去の出来事も消えていく。これは逆に良いことではないか?まわりが親愛する者ばかりで、過去が良い思い出ばかりであれば良いが、悪いことばかりが残っていれば、苦痛になってしまう。順序として、悪いものから、削除されていけばいいのであるが、どちらかと言えば悪いものの方が腐敗して残りやすい。
パソコンみたいに自分で選別して、消去できるようになれば、素晴らしいし、いづれ、開発されるのではないだろうか。自動消去装置として。
すると、痴ほう症みたいに幸福顔ばかりになるのではないか?
昨日の日曜日は、町営ホールで(北のひとり星)を歌い、まずまずの出来具合であった。何人もの知り合いから誉められた。
今日は体がだるくて、何もやる気がしない。リクライニング式の座椅子に寝転がって、小説を読んだり、考え事をしたり、ぼんやりしていた。腰が痛く、膝も痛み、腕も痛い。四日間、つづけて、梅の実を竹竿で叩き落としたことを思い出した。5メートルもある竿で何度も伸び上がって、叩いた。始めの頃は、アラレが降るように落ちて来たが、思い切り、強く叩かなければ落ちないようになった。
昨日、産直店から売り上げの、メールで来ていた。梅の欄は、?50円になっていた。おかしい、と思っていた。客からクレームが出たに違いなかった。二日前に梅の実を詰めて出そうとした時、小さなアリが袋の中で這っていたのであった。潰そうとして、逃げられ、そのうち死ぬだろうと、と放置していた。客はそのアリを発見し、店に返しに行ったのであろう。店は金を返したであろうが、50円の意味はわからない。
今日も五時ころに目が覚め、30分ほど書きものをし、産直店に出荷するものを考えた。以前、住んでいた家の庭に入り、熟したビワを採り、持って帰って6個ずつ、袋詰めをした。一袋、150円にしようと考え、バイクのボックスに入れた。桑の実が熟していることを思い出し、庭の端に行って、100個ほど採った。一袋に15個入れて、100円で出そうと考えた。
産直店に行くついでに、コイン精米機に寄り、ヌカを探したがなかった。
産直店に着くと、すぐに、店長を探し出し、?50円の原因を訊ねた。
「お客さんが、傷だらけの梅が入ってるって言って、傷ものを返しに来られたんですよ。十個ほどったので、五十円をお返ししました」
わたしは、
「よく点検してだしたけど、2.3個は傷ものがあったかもしれません」と言って、謝った。
アリのことでクレームではなかったので安心した。ナメクジが入っていて、注意されたことのあった。
食べ物を出すことは難しい。毒草が混入することだってあり得る。損害賠償をされたら、私が払わねばならない。
自分が梅の木を叩き過ぎたからであった。出していた3袋も売れずじまいであった。
おまけに腰痛も出たのである。叩かれた梅の実は、売れないことで仕返しをしたのかもしれない。そう考えると合点がいった。
骨折り損のくたびれ儲け、という幼い頃、口にした言葉を思い出して、つぶやいた。
三日前にマージャンを、やった。二卓出来て、賑やかで、面白かった。場中に飛ばす流言も面白かった。帰り間際になって、(これから帰って、母ちゃんから飯を焚け、って言われるんや)と老男が本当か冗談かわからない口調でぼやくともなく言い、これから男はどうなるんやろうか?女にこき使われて、と付け加えた。
イーチャンを終えたころ、わたしは友人のそばに寄った。
「そろそろ、年金の会に入ってくれんね?月の会費は500円よ」
友人は顔を俯けて、考え込んだ。
マージャンはその会の主催であった。
「母ちゃんに言うたら、月に五百円の金は、もったいない、ち言うんよ」
母親から叱られる子供のような表情であった。
わたしは言葉を失った。
彼は、もと、船乗りで、世界の五十か国をまわり、百人以上の女達と親善行為を交えたという男なのであった。
カラオケの女先生は、やっと最近、私の亭主が茶碗を洗うようになった、と言い、彼女が娘の家に行くと、旦那が赤子を背負って、茶碗を洗っていた、良いことです、と言った。私は思った。自分の息子のそんな場面を見たら、良いことです、と言えるだろうか?嘆くのではないか?と考えたが、男勝り(これはもしかするとセクハラ用語ではないか?)の女先生のことである、良いことと思うかもしれない。
以上の風景は十年前には想像も出来なかったものである。急に男女の情勢が変わってしまった。これから、どのように進展していくのか想像も出来ないし、男には、(女難)が待ってるとしか言えない。結婚してはだめである。
ある男が言っていた。パートタイムの結婚が好い。一時間、いくらで、男女の関係をもつ。終身の結婚は終身雇用だから出費がきびしい、と。
百姓をして、生きている。野菜を自然農法で作り、今の時期は庭に出るビワ、梅の実、フキ、花などをとり、産直に出して生活している。今日の朝は七時ころ、ハチクを店に出し、300gを250円で、8袋が午前中に売れた。その喜びがあって、今日は昼過ぎに山に行ってハチクを取り、庭で火を焚いて茹で、洗って、袋詰めをし、明日の朝、産直店に持って行くだろう。
こんな生活をしていると、自然の姿が良く見えてくる。産直店ではタマネギ、ジャガイモなどが豊作で農家は豊作貧乏になっているが、イノシシがハチクを食べるようになって、産直店ではほとんど出なくなった。農薬のため、鳥の数が減り、庭の松に毛虫が大量発生し、それを私は発見して、数百匹を踏みつけて殺した。食物連鎖が壊れている。スウエーデンの16歳の女の子が地球温暖化防止のために立ち上がった。発達障害では?とレッテルを張られたり、情報局の回し者ではないか?と疑われたり、事実を伝え、真実を求める者は何時の時代にも魔女狩りの対象になってしまう。
一つ、考えたのは、春夏秋冬、毎月、野菜が採れ、果実が出来て、一年中、食べれて、人や野生動物は飢え死にしない。誰がその仕組み・サイクルをつくったのか?ということである。単月にしか出来なければ、米や麦を貯蔵しなければ、人は飢え死にしてしまう。
聖書の創世記1?11に書いてある。(次いで神は言われた、「地は草を、種を結ぶ草木を、種が中にある果実をその種類にしたがって産する果実の木を、地の上に生えださせるように」するとそのようになった)
ここで、(その種類にしたがって)という言葉を考えてみたい。種類ごとにわけて生み出させたのか?とすると、各月に産出するように仕組んだのではないか?そうだとすると、神はそのことでいろんな生物が生きるようにしたのではないか?
話はとぶが、働き者で有名な蟻の世界でも何割かはまったく働かない。その本を書いた作者は働くアリが働けなくなった時に出動するためではないか?と書いている。ここで大事なのは、多様性なのである。多様性が生存とその秩序を維持してると言う事である。トマトや枇杷、梅の実などは冬は休んで春になると出番を迎える。すべてが補完し合って、共存してる。
人間だけが均質化されていき、補完力を失っているのだ。差異はエネルギーを生み、多様性をつくる大事なものではないか?
この出来事は登場人物が特定できないように書くしかないが、そこに世間の目の怖さを感じてしまう。何しろ、マスコミは中傷合戦をやってるみたいで、政治家や芸能人など有名人たちは自分が餌食になるのでは?と戦々恐々としているに違いない。趣味で小説を書いてる私であっても、作品がもし出版されたらモデルにされた人は私を訴えるかもしれないと恐れてしまう。不幸中の幸いで、何度、応募しても落ちている。
ある(会)での出来事である。
その初老の男はいつも賑やかな振る舞いの人で、他人の面倒見もよく、かなり知られた人である。その身内が町会議員選挙に立候補し、落選した。すると知り合いから、あんたが、スナック・ママと関係を持っていることが原因だよ、と言われ、ショックを受けた。彼が次期、町長選挙に立とうと意欲を持っているのと重なって、かなりのショックであった。
彼は噂を立てた者を探し回った。見つかったので家を訪れ、追及した。相手は認めたが、誰から噂を聞いたかは話さなかった。そこで、仲直りのため、一緒に食事をし、酒を飲んだ。彼はスナックママの引越しの手伝い、など世話を焼いたことが噂の種であった。
そこまではよくあるケースであるが、彼はそのやりとりをパソコンで活字にし、会合の席で、六人に配布したのである。そんなことで騒ぐな、というのがだいたいの反応であった。
わたしは、そんなことを活字にして配布するなんて、あなたは言論の自由をどう思うのか?噂話をするな、ということになってしまうじゃないか、と言ったが彼は聞く耳を持たなかった。同時に、スナックママや噂を立てた者(実名で登場している)達が公表されたことの精神的苦痛で訴えたら、どうなるか?怖くなってしまった。
世間には魔物が住んでいる、のである。同時に、わけのわからない時代になった。
昨日の日曜日は、(身障者会)の、総会があった。自分は心臓バイパス手術をして、身障4級であるが、入会して三年目になり、事務局長の役を与えられた。誰もなり手がなく、会員数も減少している組織であるが、引き受けてしまった。エクセルで業務計画表や組織図面を作るのに、苦労し、同時に人前でしゃべらなければならない。ドモリのうえに対人恐怖症の気もあり、少し心配であったが、歌ではまったくドモラないので、カラオケを歌うようにしゃべる決心をした。
(みなさん、今日は御出でいただきまして、ありがとうございます。事務局長という大役を仰せ付けられ、正直なところ四苦八苦していますが、諸先輩たちのご指導のもとに頑張っていきたいと思います)
とマイクでしゃべり、新役員の名前を読み上げ、今年度の行事計画を読み上げた。
会長は、そのうち慣れていくよ、という評価であり、まずまずだったと思う。自分の前に、町長や県会議員、国会議員など雄弁者たちがしゃべったのであった。しゃべり方より、内容であると常々、考えている。自分は原稿なしで一時間以上はしゃべれる自信はある。
五十年前は、(ドモリ、赤面恐怖、対人恐怖)の矯正学校が新聞の広告によく出ていたが、それらは(発達障害者)という項目にとりいれられて消えようである。つまり、症状に病名が与えられ、病気として認定されたのである。健常者でも赤面し、ドモリ、対人恐怖になる癖はあるから、本来は個性として捉えられていたものが、どもってはいけない、赤面してはいけない、人を怖がってはいけない、と禁止の対象にされたと言える。
個性に近い様々な症状や癖に病名が与えられ、治すべきもの、になったのである。それによって、さらに症状は深刻化していく。
対人恐怖症のほとんだは、自分の劣等な部分を人に見られているのではないか?自分は人と変わっているのではないか?と心配することから始まり、外出恐怖に発展していく。ヒキコモリである。
このホームページにあるように、自分は変わっていることが、(希少)なことだと定義づけ、10年以上も書き続けている。読んだ人の中には、自己満足ではないか?と言った人もいたが、変わった性格が、rare is gureat、ということになれば対人恐怖症もなくなるはずである。
宗像市の産直店に看板を出して、玉ねぎを出展してみた。(自然農法で作りました。甘くて柔らかいのでサラダにどうぞ!)と書いて、かごの中に22個、置いてみた。二個で150円なので、一般の玉ねぎより二割は高い。一日目は2個が売れ、二日目は6個が売れ、三日目は0であった。40パーセントが売れた計算になる。旬の時期とあって一般の玉ねぎの売れ行きは良くない。
自分で、40パーセントの数字をどのように評価すべきか、思い迷った。ニ、三か月後には自然農法によるトマト、ジャガイモ、ナスが大量に控えているので、さばけるかどうか不安になった。玉ねぎは枯葉と米ぬかを肥料にして作ったのである。後続の野菜は枯草を肥料にしているから肥料代はただだし、農薬はかけない。実質的には苗と種に金がかかっているがわずかである。知人に玉ねぎを試食してもらうと、すごく良い評判であった。
一般の野菜と同じ値段にすれば全部、売れる、と考える。自然農法という付加価値を理解しない者はいないし、自然農法で売ってる者は私だけである。
40パーセントという数字は、良い、と判断した。消費者も初めて口に入れた玉ねぎであるし、噂になれば売れ行きも伸び、一つの事業になる可能性も出てくる。消費者の反応をもっと期待していたので少し残念な気もするが、初めての試みにしては2割も高い玉ねぎを買っていただいたのである。
感謝!