ブログ - 日記カテゴリのエントリ
このタイトルで投稿することには戸惑いましたが、レアを名乗る限りはタブーに挑戦します。男の下着ドロボウはよくききますが、女の下着ドロボウ(とうぜん対象は男性の下着ですが)を耳にしたことはこの65年間一度もありません。いつもそのことを不思議に思っていました。ある時、付き合ってた女に(女の人って男性の下着には興味ないの?)ときくと(あるわよ。でも男の人の下着ってみんな同じようなのばかりだから興味がなくなるんだわ)ってこたえました。そういわれればそうだな、と考えました。もし、女の下着が男のブリーフやトランクスみたいのばかりだったら興味をうしなうでしょうし、フェティシズムを刺激することもないでしょう。
わたしが考えていたのはフェティシズムは圧倒的に男性が多くて、女性にはあまりみられませんがそれは右脳と左脳の発達のちがい、感性の根本的なちがいにあるのかな、ということでした。作曲家、コック、画家、の世界に女性はほとんどいませんよね。これも不思議ですね。
結局はフェロモンだったのです。動物でも雄が雌の尻に口をつけて嗅ぐように、男は女の性器が出すフェロモンに惹き付けられ、追うようになっているだけなのです。
民間会社の組織、管理体制はわかりやすいが公務員、政治の世界になるとわかりにくく、いつまでたっても腑に落ちないことばかりである。それは組織・構造上の問題である。
大臣とはいったいどういう立場にあるのだろうか?総理大臣を社長とするなら、部長クラスであろうし、その下で官僚や国家公務員が働いているということになる。大臣が人事権や給与決定権をもち、かれらに責任ある仕事をさせ、それで組織が動き大きな仕事が進むと思うのだが実態はまったくちがうのである。官僚達に大臣や政治家が使われていることもある。それは政策の立案やこまごまとした法整備など大臣はしろうとでで出来ず、それらの仕事を官僚や国家公務員に握られているからである。口出しなどすれば逆にやりこめられるであろう。議員になろうとする者はこのあたりを理解し、もっと法整備や実務をマスターし官僚や国家公務員の管理権をもつようにすべきではないか。実務の能力がじゅうぶんでなければ違うやり方で彼らを管理する構造をつくるべきではないか。民間会社だって現場の仕事をじゅうぶんに知らない管理職が良い会社経営をやっているではないか。
東京電力をはじめとして全国の電力会社が犯罪行為に等しいことをやったことは、マスコミ報道でもご存知と思いますが、政府はそれにたいしての根本改革をしようとはしない。それはまだ両者がつるんでる状態にあるからでしょうが、本来であれば独占企業という組織をなくさなければならない。
わたしはある独占企業と委託契約をして働いていましたが、内部の職員の意識はまったっく世間とずれていました。(井の中の蛙)で世間の人々がいかに苦労して生活しているかなんていう考えもしないのです。自分達が高給をとる特権階級だということもわからず当然だと思っている。学校を卒業して何十年も一つの組織で働いていると特殊な人間が出来あがるのです。
何十年か先を見通して、電力会社や独占企業は解体すべきです。電力会社には電線の使用権だけを残して、風力発電だろうが地熱発電だろうが太陽発電だろうが民間会社に参入させ自由競争をさせるべきです。今、その体制に進みつつありますが、将来的には官公庁の仕事だって入札で法人委託部門を広げるべきです。
(官)と(民)のちがいなんてたいしてありはしない。
テレビ、新聞の報道を毎日みながら、この国はつくづく幸福な国だと思う。自分もその恩恵に65年間あずかってきたのです。
民主党の政権公約でなにか実現したものがあったかな?と考えると(子供手当て)ぐらいしか思い浮かばないが、増税分を差し引きしてみると金をよけいに持っていかれたことになるし、何のための政権公約だったのかわからなくなってしまう。(朝三暮四)ですね。中国の狙公という人が飼っている猿にトチの実をあげていました。朝に4つ夜に3つあげていたのですが、朝に3つ夜に4つやるようにしたら猿は怒りだしたということです。政治家は私たちをこの猿ていどにしか考えてないのですよ。
新築の立派な家を建てて、生活保護をもらってる人がいるし、こんな話もききました。田舎から一人で出てきたおばあさんがリアパート住まいを始め、リサイクルショップにガスレンヂを買いにいきました。店主が出てきてあまり安くない値段で買うことになったのですが、彼は次のように言ったということです。(奥さん、田舎から出てこられたばかりのようですね。生活が苦しかったら私に言ってください。生活保護をもらえるようにしてあげますから)ー貧困ビジネスがからんでるんです。
証券会社が毎度おなじみのインサイダー取引をしながら処分らしい処分はうけない。あれは立派な詐欺罪ですよ、なぜ、刑法の対象にならないのでしょうかね?
公務員は(公僕)という自覚を持たせるべきだし、公務員には刑の時効をなくし、量刑も市民の倍にすべきじゃないですか。市民の見本になる身分なのですから。
ともかく毎日のニュースをみるにつけ、戦争や内乱がおこるわけではないし、金持ちでも生活保護がもらえるというのは日本くらいのものじゃないでしょうか?感謝すべきなのか怒るべきなのか?
小沢氏の離党のニュースが流れたが、政界に対してわたしはすごく腹がたった。ぶっ壊し屋の異名をもち、親分・子分のつながりで勢力を拡大し、本当の政治をすることよりも有権者の機嫌をとって票をとり、自己保身と党利しか頭にない旧来の男。これは彼ばかりでなくほとんどの政治家がこのタイプなのだ。
石原慎太郎氏の尖閣列島の買取りや橋下氏の政治改革のほうがよほど政治的な行為である。こんな発想を持ち、行動する政治家が国会議員の中に何人いますか?国会議員こそが先頭にたってやるべきことではないか。血税を払って彼らに贅沢三昧をさせていることが腹立たしい。
有権者は投票するときにもっと考えるべきである。誰かに頼まれたから入れるとか、世話になってる先生だから入れるとかではなく、本当の政治をやる者に投票すべきです。
十年前の町会議員の選挙の時です。息子の通う学習塾の先生が立候補し、その奥さんが票を頼みに回ってきました。そこでわたしはたずねました。(この町をどうするつもりですか?)と。すると、次の言葉が返ってきたのです。
(それは当選してから考えます)
わたしは返す言葉がありませんでした。
今の時代においてこんな言葉を出すことは(不謹慎)であり、タブーでしょうが、そろそろこの言葉が出ても良いのではないでしょうか?人間に(生きる権利)があるというのなら、(死ぬ権利)があっても良いではないですか。死ぬ状況にはいろんな状況がありますが、人生の勤めを終えての老衰死、不治の病、燃え尽きた状態、(死)に希望と幸福を見出している状態、そんな状態で本人が死を望んでいる状況あれば安楽死に導いてあげてもよいのではないか。
当然、そんなことをすれば殺人や自殺幇助の罪に問われるであろうが、昔の切腹の儀式においては介添え人がいて、痛みを和らげるために腹を突いた瞬間首をはねていましたね。あれは仕事でもあるが、ちがう見方をすれば慈善行為なのです。
近代以前の歴史はなんでもかんでも野蛮だといって否定してはいけません。見直すもの学ぶべきものはたくさんあります。
今こそ、(死)をとおして(自然の中の人間)をもう一度見つめなおすべきです。
反原発をはじめとしてエネルギーが危機的状況になっていますね。世界的にもエネルギーが足りなくなるということです。そんな中でわたしはこんなアイデアを考えました。自転車をこぐと電気が発生し、ライトが点きますね。どれくらいの電力がつくれるのかわかりませんが、それを活用してみてはどうかということです。
各家庭に一台人力発電機を備え付けて、時間のある者や運動の必要な者がペダルをこいで発電するのです。それがわずかな量でも電力がまかなえれば良いではありませんか。その裾野は暇な人々、失業中の者、刑務所に入っている人、施設に入っている人などひろくあります。
理想的には自分が使う電力をこの方式でまかなえればエネルギー危機はなくなるはずです。
CIAなどの諜報機関には殺人許可証があるのか?と疑問に思ってネットで調べてみた。もし犯罪行為があればその国の警察機関に摘発されるであろうが、その警察機関が諜報機関とつうじていれば殺人行為でも闇にほうむられることがある、と載っていた。
欧米の人権国家が人権侵害国家を非難しながら自国の殺人行為を黙認している。諜報機関が殺したり傷害を与えたりした被害者達は闇に葬られたり、事故死にされてしまっている。そんなことが許されるのだろうか?と疑問に思う。特にあの(ダイアナ妃の死亡事件)は今でも謎めいている。
人権民主主義の正義をふりまわしながら世界を支配していくこの流れ、誰も異議をとなえないこの流れはファシズムにちかい。Y資本が軍需産業を経営しながら世界帝国を築き政治や戦争を支配していることに誰も気づかないのであろうか?
社会では口論をする者も罵声を浴びせるものも暴力を起こす者も唾を吐くものもいなくなった。隠れてタバコを吸っているものが発見されるやいなや(敷地内で吸った)ということでまるで犯罪者扱いである。だが、キレイキレイ人間、キレイキレイ社会、キレイキレイ国家になればなるほど化粧の下に恐るべき闇を隠していくのである。
あれから、農作業をしながらリハビリにつとめていました。ところが息切れが激しく、寝返りをうっても息が切れるのです。妻が見かねて病院に電話を入れ、再入院しました。
肺炎を起こしていました。心臓と肺に水がたまり、38度の熱がありました。抗生物質と栄養剤の点滴をうけ、ベットに寝る生活がつづきました。倦怠感と虚脱感に一日一日が過ぎていきました。考える気力もありませんでした。4日間は絶食でしたが、もともと食欲不振と吐き気で食欲はありませんでした。
五日目におかゆの食事が出ました。私はおそるおそるお茶碗のふたをとり、おかずのふたをとり、箸でおかゆを掬って口に入れてみました。ご飯の味がしました。なんともいえない味でした。ゆっくりゆっくりスローモーションのようにシャケの焼いたのを箸で小さく切って口に入れました。時間を忘れて、食べていきました。胃は食べ物をうけいて活動を始めていました。内臓から力がわいてくるのがわかりました。
涙が出、胸が感動に震えました。
命の意味がわかったのです。
食べ終えた時、両手を合わせていました。
渋谷駅メトロ・ホームで殺人未遂事件が起こり、犯人はつかまった。被害者はサバイバルナイフで刺されたが一命は取り留めた。(肩がぶっつかった)のが刺した原因だと犯人はいうが、因縁がぶっつかったのだとわたしは考える。無数の人々が行き来する場所だから、一日に数人の人達と体がふれあうことは日常的である。
そこでなぜ刺した男と刺された男でなければならなかったのか?(因縁をつける)という言葉があるようにお互いに因縁を持っていてそれが遠くから反応しあっていたのだ。加害者はなにをやってもうまくいかないというストレス、被害者には人生上における無力感が負圧を生じていた。そこで鋭い隙間風がナイフの刃先となって流れ込んだ。
よく見られる物理化学的反応ではなかったのか?
4月26日にわたしのバイクが通りがかりのものに盗まれた。激しい金の取立てをしたこともあったのでその恨みを感じた。
5月26日にはスナイパー(血栓)に心臓の血管をふさがれ、死にかけた。血栓は美味しいものを長年食べつづけた快楽の集積であるが攻撃因子に変わった。
因縁がぶっつかたのだが、中には良い因縁もあるから悲観するばかりではない。