けれども、わたしの目は捕らえることが出来ない。目の端を何かが素速く掠め去った気配があった。

 香織がベッドから立ち上がったとき、背中の両端に爪痕が残っていた。二筋ほどの赤黒い傷が、入れ墨から少し離れた位置に刻まれていた。私が残したものではないし、先ほどは無かったものだ。
 若い頃、アパート住まいをしていた頃、隣室に若者が住んでいた。定職につかず、昼間は寝ていて、夜になると話しをしにきた。ある時、変なことを言った。昼間、うたた寝をしていると、苦しくなって目を覚ました。見ると、包帯を巻いたミイラが彼を押さえつけ、両手で体を締め付けてきた。後で、背中に二つの爪痕が残っていた、と言った。
 香織に爪痕のことは持ち出さなかった。もしかしたら幽体離脱した穂高が彼女と交わったのではないか、と想像したが、そのことには触れたくなかった。

 ホテルを出、青浜の駐車場に向かっていた。
「今日は何回、逝った?」
話題がなかったのでそんな事を香織に聴いた。
「数え切れないくらい」
「ミナイクヨ?ってわかる?」
「みんながイクということ?」
「いや、違う。穂高さんのパソコンのパスワード、皆逝くよ。37194、次ぎにその日の日付」
「穂高さんのパソコンのパスワード?もう一度言って」
彼女は口調を硬くした。
「口が滑っただけやけもう言えん、取り消し」
「皆逝くよ、その日の日付」
彼女は指を折りながらつぶやいた。
後でわたしはこの意味がわかることになる。
駐車場まで送り、降ろした。
わたしはその脚で石川のアパートに寄った。
手土産の寿司を渡し、行為の一部始終を話した。
「それは良かった」

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