メモの中から、最有力候補を探し出した。先ず確実な一件を取れば楽になる。八十九棟の304号、そこは前回契約書を渡して来た吉井さんの部屋であった。脳裏に、病で伏した初老の女が蘇り、懐かしさと安心感がよみがえった。

304号の郵便受けを見、郵便物が貯まってないことを確認し、彼女の在宅の可能性が高いことを知った。さあ上ろうと階段に目を向けたとき、足首にヌルリとした感触を覚え驚いた。。トラ猫が掠れ声で鳴いていた。仰向けに寝て腹を出した。、背中を地面に擦りつけながら、前脚で宙に掻き、わたしを誘っていた。この前、浜辺で別れた猫だった。顔や腹を撫でてやると、体をくねらせた。腹部が肥えていた。
猫は付いてきた。暗く狭い階段を上りながら、わたしはゾッとした。―あの部屋には銀ラメのハイヒールがあった、そして香織が話したトラ猫のこと、吉井さんが言った娘というのは香織のことではないか!香織にはわたしの職業は教えていない。石川はわたしの職業を何と伝えているのだろうか?それに、もし契約をしてくれれば、わたしは集金のために毎月気まずい思いをしながら通わなければならなくなる。でも、一件の契約は欲しい。
 ドアの前に立って、わたしの右手は躊躇していた。
 「何か用事ですか?」
 階段の下から女の声が呼びかけてきた。
 わたしが訪問の用件を説明していると、彼女と階段から向き合う形になった。
 度の強いメガネの奥から、目が小さくなって、わたし見ていた。感情のない無機的な表情で。耳の上でリボン結びにした金髪は天然パーマになっている。両顎が張り、顔は四角い形をしている。―香織ではなかった。
 「あー、購読契約書のことですね。母から預かって忘れてました。書いて持ってきます」
 彼女は言って、足下を見た。
 トラ猫が彼女のジーパンの裾に顔を、擦りつけている。恍惚とした表情で繰り返している。
 「また戻ってきたの、トラちゃん。母がどう言うかしら」
 彼女は言って、ポケットから鍵を出し、ドアを開けた。
 ストッパーをドアの下に挟み、ドアを解放状態にして、部屋の中に上がっていった。
トラ猫はわたしと並んで、立っていた。
銀ラメのハイヒールが端のほうに、横向きに並んでいた。
顔の判断から香織ではないという確信がわたしを支えていた。

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