た、笑って死んでやろう、と思う。すべてが分かってしまった人間は幻想を持てない。それは幸福でも不幸でもある」
彼は笑って言った。
「幸福や不幸、そんなことには捕らわれない。そうでしょう」
私も笑った。
彼は変人であろうが、そのことに強いプライドを持っている。
別れ際に次ぎの言葉をわたしに添えた。
「あなたは石川とその女との手を切りなさい。今ならまだ間に合う。でもまたどこかで違う形で会って、その道に進むことは間違いがないけどね。多次元空間なんですよ。たくさんの枝に別れた無数のあなたが、どこかでその女に会うことを避けることは出来ない」
わたしは分かったような分からない気になった。
彼は目に見えない世界の事を持ち出しているのだ。
第四章
ある日の昼下がり、川に沿った散歩道を歩いていた。前方の曲がったところで草が茂り、見通しが隠れていた。そこに黒い人物像が見え、こちらに顔を向けて歩いて来ていた。女のようだった。日よけの帽子をかぶり、黒い布で顔を覆い、全身を黒い衣服で包んでいる。わたしは歩き進んでいた。やがてすれ違う筈だが、距離は縮まりもしない。奇妙な感じだったのでよく見ると、彼女は前を向いたまま後ろ向きに歩き進んでいた。トレーニングだったのだろう。
わたしと他者との関係は距離が縮まっても、それ以上は進まない。意識が重なり合う事があっても平行状態なのである。
終わった旅からまた始めるしかない。終わった一日からまた始めるしかない。宇宙の意識、その無限のDNA情報を微分化し一日として分けてもらうしかない。廃棄され、滓となった一日を繰り返すしかない。一日一日がただ、回っていくだけ。
(集金人は足音を忍ばせる)
という言葉が脳裏から流れてきていた、下宿屋の二階への階段を、息を凝らして上りながら、唇の神経まで伝わってくるその言葉を押しとどめ、物音や気配に耳を研ぎ澄ましていた。日曜日だから、学生の在宅率は高いだろう。テレビやラジオの声や音楽が流れてい
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