「人間は周囲の変化を感じ取ることによって時間を知るが、変化を感じなくなると時間が短くなっていく」
と言った。
周囲の景色に見慣れてしまったということより、一日に仕事の出来事に何も感じなくなったのだ。つまり年老いていっているのだ。
「時間はエネルギーだよ」
と友人は言い、
わたしはわかったようなわからないような気になった。
死期までの時間を平均寿命をもとに計算してみると、あと二十年である。今、五十五歳だから五十五年分のエネルギーを失ったと考えると、時間はエネルギーであり物質であるということがわかる。
「年老いてしだいにエネルギーを失い、変化つまり時間を感じなくなっていくだろう。まったく感じなくなってしまう。それは?」
「死だ」
わたしはその時、満足げに友人に答え、一瞬起こったその満足感にびっくりした。死の恐怖があるはずなのにである。
精神的に楽になってきているのである。
先が短くなっていくということは、仕事、家族、社会などあらゆる責任、そして(人間業)そのものからも解放さるということなのだ。素晴らしいことではないかと思うこともある。
(死に向かって生きている、そして死んでいくのは次の生に向かってでもある。その二つは相反するようだが実は同じ状態であり、どちらも真実である。生も死も実は重なり合っている。実体と影のように)
友人は言った。
(金もエネルギーである)とその友人は付け加えた。わたしは理解出来ぬまま、聞き流したが、時々その言葉を思い起こしてみる。金はエネルギーであるから欲しいものを手に入れることが出来る、その金は労働のエネルギーと等価に交換されたものである。社会はエネルギーの交換、交流の場であり、自然界もそうである。食ったり食われたり、破滅したり、再生・繁栄したりするのはエネルギーの循環である。自然界と同様、人間社会もエネルギーの交感・循環の場と解釈してみよう。

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