コーヒーカップがテーブルの上に見えた。わずかな外光を受け、握りの輪郭を横向きに黒く浮き上がらせていた。
1LDKのマンションだから、その部屋に勉はいるはずである。
(引きこもり男)ということはわかっているが、部屋の中にいて隠れるはずはない。押入れや天井に潜むなんてありえない、いやもしかしたらありえる。変幻自在な男だから予測は不能である。
救援を求められて訪れたのに警戒心が起こった。
なぜ俺は怖がるのか?
智樹は思いながら靴を脱いで玄関間に上がった。
「勉君、来たよ。居るかい?」と薄闇に向かって声をかけた。
返事を待ったが、かえってこない。
送られたケイタイ・メールの内容は、食あたりを起こして苦しい、ということだったが、病院にでも運ばれたのだろうか?
智樹は壁に目を這わせながら電灯のスイッチを探したが、指は見つけなかった。とんでもないものに触れることが怖かったし、積み上げられた物があちこちの壁を占領しているようだった。どこに何があるのか見当もつかないし、指を伝わせれば何に触れて怒らせ、落下攻撃してくるかもしれなかった。脚元も見えないから障害物もわからず、踏み出すのも不安であった。
「おーい、居るのか!」
と大声をかけると、自分の存在も確認し、少し落ち着いた。
テレビかパソコンかわからないが、それらしき物が机かテーブルの上に載っているのが見えた。そのガラス面が街灯の明かりを反射し、物体としての存在感を示している。物体どうしが感じられない情報を送りあって親和している世界であった。侵入者に対して警戒し始めたにちがいない。豆粒ほどの赤、青のランプが押し黙ったまま闇のあちこちから鋭い光を放ち、彼の挙動を見張っていた。
それらが左右に揺れたのを見た。
めまいを起こしたのかと危ぶんだが、自分の体の揺れに合わせて動いたのだった。
彼の存在は物達のコミュニティを乱し、秩序と対峙していた。
異物であった。
馴染みのないもの達は単なる物でしかないし、物体としての属性しか持ち合わせない。感情や知性があるなんて考える者はいないであろう。
立ち竦んでいると、頭上から擦れる音と息使いが伝わってきた。
智樹は耳を澄ました。
重い生気を感じて、上目使いに見上げた。

左上の頭上から何かが這い降りてきた。音を殺しながら忍び寄ってくる。 

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