ブログ - 202106のエントリ

醜い花は、いないー2

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-6-27 7:05

  醜い花は、いないし、醜い動物も川も山も機械も、ない。だが、人間界には美男美女という言葉があるように、顔形に美がが存在し、一生、つきまとうのである。美しい顔、美しい体、美しい生活、美しい政治などすべての分野にかかわっている。

 人間社会以外にはない、ということは普遍性をもたないのであろうか?

 視点を変えて、美醜の基準がなくなったらどうなるか?である。美を基準にすることがなくなり、その基準から外れた人々に自由を与えるに違いない。今日はどんなメイクで服装で出かけようか?など考える必要がなくなるし、顔が醜い、といって劣等感を持つこともなくなる。

 (醜い花は、いない)の小説を書いていて、強く思うのは、人間にとっていかに顔が重要か!いかに支配されているか!であった。さらにその基準から外れた人にとっていかに苦痛であるか!であった。今の時代はほとんどの男女が植毛眉毛で眉をきれいな山形にしているが、わたしはそんなことはせず、爺さん顔で生きていくつもりである。

 これは怖い時代である、と思う。テレビの画面など見ていて、自然の眉毛がほとんどない。コロナの緊急事態宣言や小さな出来事にチャチャを入れる風潮を見ていて、異端を排除する傾向が強まっていると思う。こんな時こそ、レアが威力を発揮するのである。

  こんな俺のどこが悪いか?である。

醜い花は、いない

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-6-26 8:24

  ニヶ月前から新作の小説を書き始めたが、題名やストーリーに迷い、何度も書き直していった。今、やっとそれらがはっきりして、方向性ができた。題名は、(風蘭)、から(真夏の黒蛇)、に変わり、(醜い花は、いない)に決まりそうである。主人公は男好きの未亡人・君枝から、奇形顔の作男・鉄ちゃんに変え、主題も彼女の男たちとの遍歴から鉄ちゃんの人生に変わった。難しい作品ではあるが登場人物も身近な人々であり、体験も十分にあるので不足はない。ただ、あまりにも体験が多いので材料負けしないように気をつけねばならない。

 鉄ちゃんは三歳の時に小児がんにかかった。顔にできたので顔中にメスを入れられ、無残な顔になってしまった。学校に通わせればいじめられると母親は考え、学校にはいっさい行かず、農作業と家事手伝いで三十五歳まで生きたのであった。結婚し、離婚し、ホームレスになり、救援組織に拾われて安アパートに住むようになった。そこで、隣室に住んでいた君枝から生活の世話を受け、彼女の実家の農作業をするようになった。

 スイカを百個つくり、売ることが君枝と鉄ちゃんの夢になり、彼はいつの間にかその家で昼ごはんを食べるようになった。いろんな世間話をまじえているうちに、こんな話が出た。

 (奥様、醜い花、ってあるんですかね?)

 いきなりの問に彼女がこたえられるはずはなかったが、彼の顔とのつながりは感じた。

 (聞いたことはないけどね。あるのかしら、あっても買う人はいないでしょうけど)

 (でも、興味を示す人はいるかもしれないですね)

 (何人かの人が興味をもっても商売にはならないわね)

 (そうですね。ところで、醜い、って誰が決めるのでしょうか?)

 (人が決めるのでしょうけど、どうやって決めるのかね?)

 鉄ちゃんはいつものように顔にマスクをして、切れ上がった唇と潰れた左目を隠していた。マスクに触れて隠れているかどうか確認してみた。

 会話はそこで止まってしまったが、君枝は友達の大村に聞いてみた。

 (それはばくも考えたことがあるんですよ)

 彼は痩せてすごく小さい男で、そのことにコンプレックスを抱いていた。

 (花は球根や種で増えるから、蝶や蜂が寄ってくるように魅力がなければいけない。寄っていく花はその種によって決まっているけど、新種の花ができた場合、どうするのだろうか?初めてだけど匂いや色、形を見るに違いない。そこで惹きつけられるか?どうかだな)

 (面白いわね。実験してみたらどうかしら?)

 (そう、やってみなくてはわからないけど、逆に花の立場なんだな。どんな匂いや色・形が効果的なのか?どうやって考え、知るんだろうか?誰かが、神みたいなものが指示を出すのだろうか?でも、ちがう考え方もできるかもしれない。つまり結論を言うと、きれいな花の場合は交配をされて増えるであろうけど、醜いと判断された場合は放置されて絶えてしまう)

 (だから、醜い花は存在しない、っていうのね)

 (うん)

 (でも人間社会ではそんなことはない)

 大村は視線を強めた。

 (役立たずの者でも絶えることはないし、生きている)

 大村はそこから先は自分の命題として、残し、ある時、思いついたのであった。

 (役立たずでも醜くても対立物としての存在価値はあり、それがなければ社会は成立しないのだ。醜いものが消えれば、美しいものとしての判断はできず、消えていくしかない)、

 

 

 

フィールド・ワーカーとしての人生

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nakamura 2021-6-24 6:48

  立花隆氏が81歳で亡くなり、知の巨人、としての偉業をほめたたえられている。田中総理大臣の仕事を書いて世間に出し、政権がつぶれたのであるから、巨人の言葉にふさわしい仕事をしたことはまちがいない。よほどの勇気がないとそんな事はできない。殺されたかもしれない仕事なのである。

 立花氏より7歳若い自分はどんな人生であったのか?と問われれば、小説家志望でありながら文学賞予選に二度ほどとおり、最底辺の労働をしながら貧困のうちに亡くなった、という答えになるであろう。自動車組み立て工場で腕時計を見る時間のない労働をし、それが終われば遊び、女に熱中し、帰郷してからはNHKの集金業務で警察をよばれるほどの仕事をし、ついには恵まれない結婚生活を送った、ということになる。

 それが世間の目であるが、実情は少し異なる。自動車工場の更衣室で着替えをしながら、隣の無口な若者が子供の人形を中から取り出し、帰っていったこと、その時、無口で陰気な彼に家庭があることを知ったこと、受信料の集金現場で警察を呼ばれて説教され、後に警察官舎を訪ねて彼から支払い拒否を告げられたことなど、机上では思いつかない体験をしたことは貴重なものであった。

 転んでもただでは起きない、とたえず思っていたし、自分の人生はフィールドワークであると考えていたのでもあった。このホームページのブログも千を超えていて、すべては人生経験から出ている。立花氏は自分と比較にならないほどのフィールドワーカーであり、人間研究、社会研究に一生を捧げ、東大似価値はない、自殺を夢見たこともあると正直に書いておられる。

 市井の研究者としての生き方は世間の人もしているし、皆がフィールドワーカーなのである。虫のいろいろ、人のいろいろ、なのである。

 

行政の民営化

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nakamura 2021-6-22 10:49

  民間企業は商品の売買で利益を得、国家や行政は税金で運営されているから、両者はちがう、とほとんどの人は考えているが、実はどちらも同じなのである。民間は信頼できる商品をつくらなければ利益は出ないし、税金を払ってくれる国民・市民がいなければ国も行政も成り立たず、消滅してしまうしかないのである。

 岡垣町の議会を傍聴すればわかるように、議案提出権は議員、町長、各課の課長にあり、評決をとってもすべては賛成多数で通ってしまうようになっている。議員の質問も通ることが前提であり、その施設にはトイレを何箇所設けますか?くらいで、肝心の費用対効果はどれくらいですか?などの質問は一切でないのである。それであれば、最初からこの仕事はいくらの予算で、どれくらいの期間がかかり、どんな効果がありますか?という案件で民間会社に入札をしたほうが、経費もすくなくてすむし、明確になるのである。だから、建設課、水道課などか可能な部署から民営化に取組むべきではないだろうか?

 NHkが、集金人の個人委託契約から不動産業者などの法人に業務を委託して、数百億円の利益を出した前例もあるのである。NHKの集金人は長い目で見れば、使い捨ての立場であったが、職員に近い待遇を得ていたのでもあった。わたしはかつて集金人をしていたので、減収になってしまったが、国民・市民の立場にたてば行政の民営化は、やるべきである。役場の職員も派遣で入っている者が増えているのである。

民と官の融合

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nakamura 2021-6-21 6:38

  今日のニュースで、長野県のスーパー・イズミが店舗の一部を市に無償提供し、集客効果と行政支援に乗り出す、と出ていた。わたしは大手スーパーでカートの整理のバイトをしていて、常々、考えていた。そこはモール式の大きな店で日に、二、三千人の客が入り、賑わっている反面、閑散としている店舗が半分を占めているのである。洋服屋、本屋、靴屋、食堂、遊技場など客の姿はいつもほとんどないが営業はしている。

 ここの一つのフロアに行政を入れて、町民に利用してもらえば良いな!考えていた。民間会社が老人の買い物送迎や福祉事業をやり始めた時代である。もとより、民と官はどちらも地域貢献の目的であるのだから命題では同じなのである。わたしの友達が街のスーパーで働いていたことがあって、いつもこの街ではどのスーパーが伸びるか?を議論していた。安売りなのか?サービスなのか?と喋りあったが、わたしは民間が福祉事業を始め、地域に貢献するようになれば、町民はそちらの方を選ぶ、と主張していた。

 来年、この町の町会議員選挙がはじまるが、わたしは町会議員などいらない、といつも主張している。いい街にしたい、ではなく自分の生活費が欲しくて立候補するのがほとんどなのである。それなら現在の職員の仕事で間に合っているし、議員の報酬を削減するだけで一億円ちかい金が余るのである。この前の選挙でも、ある女の立候補者が言っていたように、パートの仕事をするよりはまし、なのである。

 町役場をモール式のスーパーの中に入れてしまえば、便利になり、経費の削減にもなる。会議室やイベント広場を共有し、買い物ついでに行政の手続きができ、子供を遊ばせることもできる。

真夏の黒蛇

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日記
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nakamura 2021-6-19 10:52

  我が家の表口、その石垣のあたりに、夏になると黒蛇が現れていた。夏の強い日差しの下で、その姿は不気味であったが、強いコントラストをつくっていた。五、六年前から私と出会っていたが、驚きもせず、自分こそがこの家の主だといわんばかりのふてぶてしさであった。自分も少し驚くだけで、顔見知りに出会ったようにその場を去っていた。

 ところが、今年の五月ころ、敷地内の畑で出会ってしまった。黒蛇は動きもせず、舌先をちょろちょろさせながら、尻尾の先を痙攣させ、トグロを巻いて、どうやら攻撃態勢を示したようであった。わたしは様子を見ながら怒りが湧いた。地面に、落ちていた棍棒を手に取ると、振り上げ、胴体の部分を叩いてやった。黒蛇は老いていたのかのろのろtろ這い出し、藪の中に消えていった。

 それ以来、姿を見なくなった。死んだのかもしれないし、隣地の田んぼに住まいを変えたのかもしれない。

 興味を持って、蛇の進化を調べてみると、爬虫類から四肢を捨てて、蛇になったのであった。おかしい、四足があったほうが動きやすく便利ではないか?と考えたが、それは人間の考えであって、蛇の立場にたてばそうではないみたいであった。足で這うよりは滑るほうが早いし、面倒もないのである。蛇が魚を襲う場面を見たことがあるが、すごい光景であった。鎌首を水面から垂直に立て、真上から狙った小魚に飛びかかるのであった。まるで、龍の姿であった。カエルを飲み込む時は、カエルは先に恐怖のあまり、身動きできなくなっていて、それに飛びかかるのである。

 黒蛇が去った畑は寂しくなった。

 そろそろ出てきて欲しいと思う。スイカの蔓が這い周り、小さな実ができ始めている、そこに黒い姿をまた這わせて欲しい。

test

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執筆 : 
nakamura 2021-6-15 11:16

 テスト中

竹槍敗戦とコロナ敗戦

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執筆 : 
nakamura 2021-6-15 8:58

  欧米などの諸外国でワクチン接種がすすみ、コロナからそろそろ解放されているのに日本はオリンピックの開催をするかしないかや緊急事態宣言の延長はどうするかなどでもめている。半年以上も遅れている。明らかに、コロナ敗戦である。太平洋戦争時において戦場で負けているのに勝ったように報道し、アメリカが本土に上陸したら、竹槍で戦おうと言って訓練までしていたのと同じである。。なんという情けなさであろうか?以前、アメリカから、日本人の精神年齢は中学生程度であると言われたjことを思い出す。戦時中、為政者、官僚たちは現場の実体からかけ離れた仕事をしたために、数百万人の戦死者を出してしまっている。七十年たってもこの国の体制・構造は変わっていない。冷蔵庫の冷凍機能がおとろえてワクチンを破棄したり、ワクチンが余って捨てたり、ぶざまなことをやっている。これが先進国だとは到底思えない。そうかと思うと、トヨタなどは接種会場に改善提案活動を持ち込んで1,5倍の効率を上げている。

 このちがいはなんであろうか?

 政治家や官僚ばかりのせいではなく、国民性もからんでいるのである。長いものに巻かれろの精神である。ゴミの分別収集にはすごく熱心なのに、農薬には無神経で、日本は農薬使用量が世界一であることは知らない。国民もマスコミもおかしいとは言わないのである。地球温暖化に対して騒ぐが、農薬によって増えた病気は無数にあるのに研究も指摘もしない。

 要するに、公言・公開されたことには従い、関心を持つが、そうでないことには頬かむりなのである。無視されり隠れた事実には、ああそう、と言う程度の関心しか持たないのである。だから、重要案件が捨てられてしまい、コロナみたいな大事件がある時噴き出てくるのである。

 のど元過ぎれ熱さを忘れる、のである。

 

 

 

心の筋力

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執筆 : 
nakamura 2021-6-12 8:06

  森村誠一さんは若い頃、推理小説のベストセラー作家であったが、88歳になられて、(老い)についての本を出された。昨日の新聞にその広告がのっていて、(心の筋力)という見出しがわたしの眼にとまった。

  いつも午前三時ころに目が覚め、想い迷うのである。起き上がろうかこのまま寝ていようか?とぐずぐずしている。昨日、採ったビワ、梅の実の袋詰めをして、バイクでスーパーに持って行く、千円にはなる。だが、袋詰めも面倒だし、バイクの運転も怖い、走行距離が十万キロになるカブが途中でくたばってしまうのではないか?大型トラックにボディを擦られてバイクが転倒するのではないか?このまま死んでもかまいはしないのに、と思いながら起き上がり、準備にかかる。

  体の筋力、そして心の筋力がバテテしまっているのである。

  バイクのトランクにビワと梅を詰めて、走り出すが、道路のはしは荒くれていてタイヤはふらついている。倒れれば大けがか死ぬかの大事故になる。大型トラックが風圧を押し付け、ミラーを擦らんばかりに寄って来る。ぶつけられて死んだ方がいいかもしれない。

 ほぼ命がけの運転で店に着き、産直コーナーの棚を見回し、値段をみて売価を決める。梅が1キログラムで350円、それが6袋、ビワが一袋250円で二袋、値札を張り終えて、帰宅し、少し休んで、畑に出る。十二時、十四時、十七時に、売り上げ情報がスマフォに入って来る、十四時の段階で、完売であった。

 これで一日が、生きれた。

緑豊かな家

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-6-10 6:09

  畑仕事が一段落する、といっても終わることはないのであるが、椅子に座って、酒を飲む。まわりには緑豊かな景色が広がり、わたしを包んでいる。背中には田植えを終えた田んぼがあり、右手には色づいたビワが見え、つぎに梅の木が茂り、そしてアジサイが五つの花壇で花を咲かせ、日本庭園ではしだれ梅が枝を剪定されて垂れている。

 ピーナツを嚙みながら、酎ハイを飲む。

 目の前で、二十株のスイカが花を咲かせ、四方につるを這わせていている。接ぎ木のものは根元からカボチャの葉が出ていて、まさかスイカとカボチャができるのではないか?と思ってしまう。そばの線路で電車が走る。緑豊かな家にお住まいですね!都会から来た男が昔言ったが、まさにそのとおりである。彼は三十年前にガンで死んでしまった。わたしより若かったのに、残るはずだった人生から見捨てられた、気の毒に。わたしだって、あと十年の命であろう。

 ミニ・トマトが赤らみ、口に入れてみると香ばしかったし、ナスもピーマンも大根もニンニク、キュウリも草の中から顔を出し始めているが、いつまでたっても草むしりは終わりそうにない。草刈り機で刈れば早いのであるが、それらと草の混じった状態では使えず、鎌でていねいに刈っていくしかない。

 数十種類の草が隙間なく畑地を埋めていて、それらを刈り取ったとしても三週間後にはみごとに元どおりになっているのである。自分の命が尽きるまで刈り取らなければならず、まわりに茂る木の枝も切り落とさねば隣地から苦情が出るはずである。

 もう疲れたよ!

 鎌を投げ出して、地面に寝転がり、空を見上げる。コロナも静かになって、また、前の時代が戻って来そうである。人間業から解放されるか?と考えていたが、そうではなさそうである。

 顔のそばで、草がささやいている。

 僕たちだって、生きる権利があるんだよ。

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