ブログ - 202008のエントリ

それからのスイカ畑。

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日記
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nakamura 2020-8-30 17:48

  今日も午前五時に起き、四枚切りの食パン一枚とブラックコーヒーで朝食を終えた。庭の畑に出て、まずトマトのアイコちゃんの収穫をする。真っ赤に完熟したのと真っ黄色のとでおよそ三十個であった。次に栗を拾い、実をヒバシでこじ開けて出すが、虫食いが多くて店に出せるのはおよそ二十個。次に。シソの葉をハサミで刈り取っていくと、十袋(小袋)になった。次がスイカである。予想してたように三個が残っていた。一個をハサミで切り取り、八百円で出すことにしした。

 スーパーの産直コーナーに並べ置いて、帰宅する。もう一軒の産直店でもみ殻が全部、売れていたので精米所に取りに行くことにした。精米所は前回、コロナで店を閉めていたせいでもみ殻がほとんどなくなっていたので心配であったが、二十袋分はあった。袋に詰めていると、近くの老農婦がもみ殻を取りに来たので世間話をする。

 もみ殻を産直店に運び、八袋置いて、帰宅。昼食をとって、スマフォを開くと、アイコちゃん、クリ、スイカは全部売れ、シソも二つ売れていた。

 スイカはあと二つ、残っている。少し小さいので二個ともそれぞれ八百円で出そうかと、考えながら、スイカ畑が空になることに気づいた。商売にばかり熱心になった自分に気づいた。

 鹿児島で昔、百姓が種を播く時、一粒は鳥さんのため!二粒はモグラのため!三粒目は人のため!と言って蒔いたこと思い出した。そうだ、一個は残しておこう。そうすればおまえは体を割って、種を出し、どうぞ、好きなように食べてください!と訴えるじゃないか!そして、鳥によって遠方に運ばれて子孫を増やすのだ。

 三年前、カラスはスイカを突いたが、今度は気づかないようである。かれらも、ゴミ漁りも網がかけられてエサ取りがやりにくくなっている。畑で、空腹のせいだろう、いら立って大声で鳴いている。二粒目はカラスであげよう。

 結局、一個は残しておくことにした。

 もし、おれが来年の夏が迎えられないことがあっても、残った種が芽を出し、子供たちは夏の陽を浴びながら育っていくだろう。

 それで良い・・。自然さえ残っていれば人間は生きられる。

枯れ蔓の伸びし団欒夢の跡

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日記
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nakamura 2020-8-26 2:42

  おまえをタライの水で洗おうとした時、立ち止まって、両手に持ちかえたことを憶えている。あまりにも重いので、落とす心配があったのだった。つるつるした体は人の女のように滑らかだったが、背中に落ちない黄色い汚れが少しあった。バイクの箱の中に入れる時、割れたらどうしようか?と心配になり、厚い毛におおわれた手提げ袋に入れて包んだ。一か月前におまえの姉を運んだ時のように。

 スーパーの裏口の暗い廊下を歩いていると、係の女が前に姿を見せた。お早うございます、と声を掛け、、今日も持って来た、何だと思う?と言うと、大事そうに持ってるからスイカでしょう、と笑顔で応えた。(いくらにしようか?)と言うと、(大きくして、良いわ)と言ったので、大きく?って何?と考えた。高い値段だとおもった。

 産直コーナーの台におまえを座らせると、がらんとした中にお前がまさに生きた姿で現れていた。最初は横向けにしてみたが、立ててみると、すんなり立って、生きた姿を見せた、畑では寝転がっていたのにな、晴れの舞台をおまえは知ったのだろう。クリを三パック、トマトのアイコちゃんを三パック、シソの葉を八袋別の場所に並べると、仕事は終わった。おまえの体には、1100円、の値札を貼った。

 正午に、メールがスマフォに来た。おまえもクリもトマトも売れ、シソは三袋が売れていた。

 昼食を終え、いつもの山道を散歩した。放棄された野菜畑があった。戸建て団地の角にあって、高い畑地からカボチャがツルをあちこちから伸ばし垂れさせ、顔を見せている。持ち主は二、三年、野菜作りをしたが放棄してしまった。

 ところが、カボチャは毎年、体を割り、種を落とし、実をならしているのである。三年目になっても、家族たちは枯れると、翌年には芽を出しているのである。

 枯れ蔓の伸びし団欒夢の跡。

 植物たちに不思議な生き方に、胸を打たれる。

 嫁ぎ先の食卓で、おまえは供えもののように座り、飾られているだろう。家族に見惚られ、舌を鳴らされているだろう。

 おれはその団欒を想像しながら、別れを惜しんだのであった。

 

 

閻魔らの囃す夜明けや嫁に出る。

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日記
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nakamura 2020-8-25 4:54

 あと二時間もすれば夜が明け、おまえはこの家から出ていくだろう。もう戻ってこないし、おれと顔を合わすこともなくなる。七百坪の敷地に産まれたおまえが、きれいな女になって嫁に行く朝がくるのだ。閻魔コオロギたちが忙し気に宴会をひろげる畑から、三十分も離れた街中に、おれのバイクで旅立つことになる。この家はおれひとりの淋しい家だったけど、十人の兄妹たちに囲まれてお日様を浴び、二か月間の幸福な生活を送ってきた。 兄妹たちの中で、姉は一か月前に嫁に出、幸福な家に住んで大事にされて過ごしただろうが、おまえの番がやって来たんだ。おまえも姉に似てきれいな縞模様を体に帯び、白い肌をしている。おれは毎日おまえたちの体を撫で、カラスにつつかれてはいないか?変な病気にかかってはいないか?と心配したけど、きれいな姿と顔で嫁に行けるなんて、おれは幸福に思う。

 バイクの箱の中で揺られていくけど、おれが大事に運んでやるから心配しなくて良いよ。

 九時になればお客さんたちが店に入り、(まあ、きれいなスイカだわね。今年は大雨の被害で全滅したところもあったけど)と、喜ばれるだろう。数千人のスーパーのお客さんの目にふれ、触られるけど幸福な家に嫁ぐんだから嬉しい日だよ。

種は消えない。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-8-22 5:23

  前項のブログの中で、柿の実は虫に食われてしまう、と書いたが、じつは、生き延びるのである。柿の種は食べられても、吐き出される。食べられて動物の消化器官に入ったとしても、種そのものは消化されない組織になっていて、そのまま排泄される。大地に落ちて、芽を出し、生きていくのである。親とは離れた場所で、おまけに便を養分にして成長していくのである。

 誰が考え出してそんな仕組みにしたのであろうか?考えれば考えるほど、不思議であり、神秘的というしかない。聖書の創世記に、神が生命に生き延びよ、と言った部分が鮮明に思い出される。ノアの洪水、にみられるように、生命は一度、滅び、再生することを述べている。今回のコロナ禍に対し、教会ではどのようにとらえ、どんなことを話しているか?およそ、の想像はつく。

 だが、宗教的な考え方に興味があっても、(不完全な)人間たちの関わる宗教団体には興味はない。

 今回のコロナ禍に対してどのようにむきあうべきか?マスコミは書きはじめているが、コロナ禍をきっかけにして、(生命)に対してどのように向き合うべきか?の視点を持つべきである。

 

何を信じて生きていきますか?

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日記
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nakamura 2020-8-21 5:41

  昨日は、室温三十六℃の部屋の中で、扇風機にかかっていた。耐えられなくなって、庭の畑に出た。きゅうり、ニンジン、おくら、ウリ、スイカ、里芋、サツマイモ、うこん、ゴーヤ、カボチャなどは二週間も水をもらえず、葉っぱが黄色くなりはじめたのもあった。面倒見の悪い園主のために彼らは可哀そうである。さっそく、二十ほどの畝にホースで水をかけ始めると、あっちからもこちからも、ぼくにちょうだい!といってせがんでくる。植物たちは動くことができないので自分から水辺に行くことができない。

 だが、彼らは動かなくても生きていける種を選んだのである。動物の道を選ぶべきだったか?と考えてもすでに遅い。人間世界はコロナ禍で大騒ぎをしているのに彼らはそんなことはない。だが、絶えてしまったり、病気にかかったりするものも多い。庭のクリ、柿などは毎年、虫に食われてしまう。他の植物みたいに悪臭を出したりして身をまもることをしない。柿など実が出る頃に食われてしまって、数個しか成熟しない。わたしはバカだな!と考えたこともあったが、それは人間中心主義の考え方であって、柿は人間の消毒に助けられていつまでも生き延びている。

 神木と呼ばれるイチョウの木はさすがに立派である。虫に食われることもないし、木質はまな板に利用されるほど丈夫で、放置していても腐ることもない。今年もギンナンをたくさんつけているので、それを売れば生活の足しにもなってくれるであろう。

 (何を信じて生きていますか?)

 昨日は、そのことを考えていた。コロナ禍において、政治、経済、宗教、哲学などすべての権威が総崩れになっている。その中で、考えた私の結論は、自然の生き方に学び、それを信じて生きていきます、であり、このホームページの最初の趣旨でもある。大量生産、大量消費、多数決主義が終わり、、少数者の時代に変わっていくであろう。

死んだふり飛ばしてやっても死んだふり。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-8-18 9:26

  昨日は、四十度近い気温の中、山歩きをした。全身汗まみれで、脚も疲れているのに、一時間半の歩きである。石ころだらけの道に足をとられながら、まさに修行であるが、それをしないと体が落ち着かない。

 折り返し場所に、清流が木漏れ日を陽をあびて流れている。見とれていると、肩に何かがとまった。手で触れると、玉虫であった。七色の縦じま模様が美しい。すっかり姿を消された虫が生きていた。帰宅して、虫ピンでとめて標本にしてやろうか?と考えたが、玉虫は手の中で仰向けに寝たまま、手足を閉じ、動こうとしない。擬死、死んだふりをしていたのである。どうしようかと迷ったが、逃がしてやることにした。放り投げてやった。飛ぶかと思ったがそのまま、草の中に落ちた。

 山歩きにもどり、玉虫のことを考えた。敵が去ったことを知り、草むらの中で動き始め、飛ぼうとするにちがいなかった。玉虫に声をかけてやった。(今度はまちがって人の体にとまったりしちゃだめだぞ。標本にされるからな)

 話しは変わるが、今朝、スーパーの産直売り場に行って、トマトを五パック、青じそ四パック、赤しそ二パックを置いて来た。他の出荷者の売れ具合を見るために、値札の日付を点検していたが、今日が何日かが、わからなくなった。十八日だとわかった。

 帰宅してカレンダーをみると、今日の日付に赤印がしてあって、スーパーのアルバイトに行く日であることに思いついた。明日だと、すっかりカン違いをしていたのである。近頃は、曜日や日にちが混乱しているのである。認知症になっていきそうな気がする。認知症がひどくなれば、自分が生きてるのか死んでるのかもわからなくであろう。

 あの玉虫は死んだふりをして生きていたのである。人間にそんな生き方ができれば、幸福ではないか?と考えた。バカのふりをして生き、バカになって死んでしまう、それも良いではないか?虫たちの生き方に学ぶことは人間社会以上に多い。

秋茜頭を掻いて夕陽見る

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-8-16 5:50

  昨日、栗の木の下草を刈って、七百坪の敷地の草刈りが終わった。自分が何歳になるまでこれが出来るのか?と考えながら、空を見上げると、となりの田んぼにはみだしたモチノキの枝が見えた。涼しくなればあれも切らねばならない。枝を切り落とすだけでも大変な仕事だから、幹を切るなんて恐ろしいことに思える。

 栗の実を十個ほど、拾った。三分の一は虫食いだった。産直店で昨年、苦情を言われたことを思い出した。虫は花が咲く時から中に入っていて、実を食べながら成長していく。いろんな命は知恵を絞りながら、生きている。コロナだって、そう考えれば生きるために人の細胞に食らいついている。

 夕陽に目を向けると、トンボのアキアカネが草にとまっていた。夕陽の明かりに茜色を漉されながら、頭を掻いて、首をきょとんと元に戻した。何とも言えない仕草であった。これが命だと思った。

 アキアカネ頭を掻いて夕陽見る

  そんな句が浮かんだ。とんぼは時々、頭を掻くようなことをする。なぜかわからないが、可愛いものだ。あんな気持ちでいたいと思う。

盆踊りどこかに消えたコロナ夏。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-8-15 5:05

  今月の半ばにお墓の掃除をし、お参りもした。次は、畑が待っていた。激しい暑さの中で草刈り、草むしり、野菜の出荷もした。カナカナゼミが鳴いて、夏は終わりを迎えようとしている。

 だが、何かがおかしい、何かが消えている?そうだ、盆踊りの唄が一度も空に響かなかった。こんなことは、戦後には一度もなかったのではないか?ここでコロナの事態がいかに異常であったか読み取れ、淋しくなる。

 自分はあいかわらずの貧乏暮らしであるが、スイカが一つの茎に十個も出来、一昨日は一個が千円で売れた。ミニトマトのアイコちゃんも顔を真っ赤にして、がんばっているし、シソやニラなども売れ行きが良い。自然はまだ生きており、野菜家族は健在である。チップ農法には失敗し、落胆していたが、今後は通常農法とうまく組み合わせてやっていくしかない。

 そして、庭の、栗の実が成熟して落ちはじめた。昨日は四本のクリの木の下の草を、刈った。汗まみれになり、何度も休んだ。終わると、栗を焼いて、食べ、酒を飲んだ。食い物に関してはぜいたくな暮らしである。それに、イチョウの木がギンナンを落としはじめた。食べてみると、なんとも香ばしい味がする。酒のつまみとしても最高である。

 アルバイトが見つかった。スーパーで、週に二日、買い物かごの整理をすることになった。考えなおしてみると、健康で、体が動くこと、そして、美味しい食べ物、それだけで最高に幸福なのである。

 

はたして言論の自由。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-8-13 20:24

  近頃の新聞・テレビは、コロナの感染者数の増加、お盆休みの様子、中国の香港への露骨な支配などでお茶を濁してるように思える。物書きである記者の真剣な姿が見えてこないし、見せようとはしない。舞台の袖口に立って役者を傍観しているだけで、自分達のこととして真剣にとらえてるようにみえない。

 香港の人権活動家たちの闘いなど書くことはそれはそれで意義にあることではあるが、日本には表現・言論の自由があって幸福ですね、と裏でこっそりささやいている魂胆がみえる。それで読者に満足・自慰をさせていることに気づかないのであろうか?

 自称・小説家として書いているわたしからみれば、そんな茶番劇が透けてみえてくるのである。小説の文章を書くだけでかなり苦痛であるのに、そこでセクハラ、差別、人権などのタブーが絡んでくると筆が止まってしまうことがある。(美由は女だてらに薄笑いを浮かべた)と書こうとして、筆が止まる。(女だてら、とはなんですか?女だったら薄笑いを浮かべてはいけないんですか!差別ですよ!セクハラですよ!)という口火からSNSやファイスブックなどに飛び火して騒がれることは目に見えている。

  コロナ騒ぎからますます縮み志向がひどくなり、物事の真相は遠ざかっていくのである。

 それに身体障がい者の動きなども書きにくくなっている。(彼は大きく前につんのめるような動きから、後ろに大きく仰け反り、それを反復動作させ、まるでアニメーション・ダンスのをするように歩いた)と書けば大変な非難になるし、一流作家は書けないことである。これでますjます表現が狭められ、真相を縮小させてしまうことになる。

 

 

磁場にはまる。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-8-9 19:57

  小説(磁場)を書いていて、これまで謎がとけなかった状況が見えてくるようになった。人生では、魔の瞬間、と言われる事態がある。このままでは同じ失敗になり、困った状況になるとわかりながら、はまってしまうのである。女との出会いにおいて、こちらから誘ったわけではなく、相手から転がり込んで来て、体の関係が出来ると、なんであの時、私を抱いたのよ?とか、もう一人の女の男からは、俺の女に手を出しやがって!と怨まれたことがあった。こちらは家出をして行く場のない女を慰め、救ってやった(一人の女は自殺をしにやってきたのであるが)のに逆恨みをされるのである。

  思い返してみると、不思議なことに二人とも家出をしてきた女であった。

 そんな時、やばい!と思いながら、転がり込んできた女を追い出すわけにはいかず、なんで家に入れてるんだ?追い出せ!と男から怒鳴られ、女は追い出されたら自殺します!と叫んだのであった。四十年前のことであるが、殺人事件にも至らなかったことが不思議である。自分には落ち度はない、と考えながら、女が家出する前から相談にのったりしてちょっかいを出してたとも言われた。

 自分の意志とは無関係に手が伸びてしまった、というしかない。言葉で説明できるものではないし、それをすれば言い訳になってしまう。磁場、なのである。磁力に曳きつけられた鉄粉みたいな頼りない自己に縮小されてしまう。だが、年をとると、磁力も弱まり、曳きつけられることも曳きつけることもなくなった。

 小説の中で、なぜ、その時、おまえは俺の前にいたのか?と女に言い返してやった。

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