ブログ - 20200208のエントリ
このホームページを開いて、およそ二十年になります。前は、レア・ピープルと言う名前でしたが、その間、方針や姿勢が少しもぶれていないことに自信を持っています。閲覧者数やクリック数も安定していて、私の知人もかなり、見ているようです。
今、太宰治の(人間失格)を読んでいますが、百年たっても愛読者は増える一方で、太宰治は時代の先を生きていて、彼の変わり者ぶりを作品化し、彼を(人間失格者)だとタイトルづけしており、その勇気に敬服します。
(レア)などまだかわいいほうで、今の私は自分を名付けるなら、(廃棄物)と言いたいほど落胆している時もあります。そこで考え、悩み、思いいたることがあります。このブログの中でわたしはまだ、自分の十分の一も本性を出していません。それは恥ずかしいからと言うより、作品化する自信がないからですが、(人間失格)を真似て書いてみろ、と言われれば書けるかもしれませんが、太宰治ほど自分に拘り、卑下した作家はいません。彼は家庭の事や女のこと、身内のことは一切書いていませんが、わたしのつたない小説と逆です。
性的少数者や障害者たちが人権のもとに社会参加をし始めた現代において、わたしは自分の本性をもっとさらけ出すべきだと思います。どこか、避けてる節があれば、文章は力をもたないのです。余命を十年と考えて、十分の一を十分の五に持っていきますが、モデルの人権に触れることは控えます。
中国発の新型コロナウイルスの世界せいで、世界中は大騒ぎである。中国の町が閉鎖され、客船から数千人の乗客が降りられない、帰国が出来ないなど、まさにパニック状態である。治療薬が発見されたとはいえ、簡単に終息し、平和が戻るとは思えないし、東京オリンピックだって開催が危ぶまれるかもしれない。経済に与える影響は甚大である。
話は変わるが、二月になり、そろそろセリの出る時期だと考えて、野山を探してみるが見つからない。見つかったとしても小さく、食べれる量ではない。昔は,米と鶏肉を焚いて、出来上がった頃にセリを入れて食べたものであった。あの香ばしい野の味は、忘れられない。
昨日、友達から、宗像市の・・に生えてるよ、と教えられ、バイクで行ってってみた。湿地のススキの枯草の下に隠れるようにしてたくさん生えていた。後日、長靴を履いて来ようと考えて去った。
そこでわかった。農薬のせいで、、人が生活する、あるいはその下流ではセリは殺され、滅んでしまったのである。その湿地帯の上には田も畑も人家もないからセリを殺す者はいないのである。当然、生活排水の溜まる川の縁でも見つからない。ドジョウ、ザリガニ、ドンポ、メダカなど人が生きるために殺した種は数が知れない。
ウイルスは単独では生きていけず、増えることもできない。(生物と無生物の中間)に位置しているので捕食ができず、生きていけないのである。人に寄生して養分をとり、生きるしかない。
人間も単独では生きていけず、他の生物を滅ぼしながら生きているのである。
果たして、ウイルスは敵であり、蔑視されるべき存在であろうか?