ブログ - 201907のエントリ

反社会勢力とは何か?

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日記
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nakamura 2019-7-31 7:13

  反社会勢力という言葉がいつの間にか生まれ、マスコミに登場するようになった。なんとなく胡散臭い言葉だと考えながら、社会に定着し始めている。何かおかしい?言葉の背後に黒子みたいのがいて操っている?と時々、考える。国家や社会が変わる場合は何時の時代にも言葉から変わっていくのである。スケベ、変態、男女、造反有理、反権力、反抗心、田舎者など色んな言葉が消えていき、性的少数者をはじめ、新しい言葉が次々に登場して社会を変えていく。この流れはどこに向かっているのか?という疑問も浮かぶ余地がない。怖いことである。

 反社会勢力とは、基本的には社会の秩序を荒らす暴力団を指している。義侠心という言葉で組織を繁栄させてきた彼らも資本主義に洗脳され、弱い者いじめの詐欺集団に転化してしまった。彼らを利用している人がいる限り、彼らが消えることは無い。一時は銀行が高利貸しに資金を融資していたこともあったのである。

 年金難民、年金餓死者が出始めて、食べるものが無くなり、デモや抗議行動を繰り返すことが考えられる。そんな場合、彼らを反社会勢力と名指しして、抑圧するのではないか。以前であれば、反権力闘争と呼ばれていたものが、反社会勢力とすり替えられて権力側の攻撃対象にされはしないだろうか?大いに、心配されることである。

 改革や革命は、先ず、反抗から出発するのである。

文学賞の楽屋裏。

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日記
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nakamura 2019-7-27 11:37

  今年になって、二つの文学賞に応募していたが、二つとも一次予選で落ちていた。歳男だから、もしかすると?と期待していたが、落胆した。

 もう一つの文学賞に応募する予定であった。偶然、知り合いの男性の母親が二度も文学賞をとり、下読みをしていると聞いていたので、彼を通してその母親に作品を送り、評価をしてもらった。

 1応募規定の枚数より、少ない。

 2小見出しは要らないのではないか?

 3句読点がきちんと連続して打っていない。

 4視点は一つにした方が良い。

 以上の評価が彼を通して、返ってきた。

 1はそのとおりであった。

 2は作者の自由ではないか?

 3は連続していなくてもかまわない、

   のではないか?(内容がわかるように点から先の行を変えてみました)

 4は視点は登場人物のそれが入ることもあるので統一の必要はないのではないか?

 など、考え、これが下読みの基準であればずいぶんあやふやだと感じた。小説の文章になっていない、何を訴えたいのかわからない、誤字が多い、などであれば評価の基準としてあっていると思うが、2,3、4の項目は首を傾げざるを得ない。再読してもう一度評価内容を知らせるということであったが、三週間も音さたなしである。ネットで下読みの世界のことを調べると、読み手のフィーリングとあうかどうかでほとんど決まる、と書いてあった。なるほどと思った。相当の分量の作品を読まされるであろうから、首切り仕事になってしまうことはわかる。ネットの文章では,一次予選で落ちた作品が最初の書き出しの部分に手を入れただけで、その次には受賞したとのっている。1作品に対して、一人の下読みがいるのであろうか?それであるなら、どんな下読みにで出会うかによって運不運が決まってしまうことになる。出版社側もベストセラーになるかもしれない作品を逃してしまうことになる。

 来月に、先ほどの下読みの人の受賞した文学賞に応募する予定であるが、結果はどうなるであろうか?

 

放蕩息子。

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日記
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nakamura 2019-7-22 9:13

  昨日の日曜日は、いつものように教会に行った。聖書は壮大な物語として面白く、現在にも通じる訓話も入っていて、興味がつきない。いつかは、この世の真理にたどり着ける期待感もわかしてくれる。

 神父の講演は、ルカ福音書15・11?24にもとづいていた。

 2000年ほど昔、中近東のある所の話である。成人した次男は父に、財産をくれ、と言った。父は応じて渡した。すると次男はそれを金に換え、遠い所に行ったまま帰って来なかった。彼は女を買い、酒に塗れて、財産のすべてを失った。飢饉が起こり、食べる物もなくなった。彼は豚の飼育係として働き始めたが、食べる物がなくて飢え、彼に豚の餌(イナゴ豆のサヤ)さえ恵んでくれる者はいなかった。

 彼は帰郷し、父に赦しを乞うた。父は彼を叱るどころか、生きて無事に戻ってくれたことを悦び、酒宴の場を設けたのであった。ところが、長男はそれを許さなかった。自分はきちんと働いて、家の財産を守っているのに放蕩息子の弟を許し、祝いまでするとは何事か!と父を罵った。

 父は、良いではないか?次男が生きて無事に戻って来てくれたではないか、と諭したのである。

 これは聖書の中では有名な話であるが、わたしは知らなかった。同時に、放蕩息子とは自分のことではないか?と疑い、苦笑したのであった。そして、父親の気持ち(神父は神の気持ちに通じていると言った)がよくわかった。わたしには二人の息子がいるが家を出たまま、音信不通である。財産を求めて、いずれ、接触してくるであろうが、その時、自分はどんな態度を示すか?自問自答することもあるのだ。

 一か月前にある会の親睦会に行き、落語を聞いた。(間)の感覚のわからない素人芸人で、長ったらしくしゃべり、故意に笑わせようとして、面白くなかった。神父の講演はおっとりとした口調で話を回し、聞く者の心の中にしみた。(聖書落語)というのはどうだろうか?と考えた。聖書の協会が許さないであろうが、新分野、である。

写真を観ながら絵を描く人。

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日記
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nakamura 2019-7-18 9:47

  三年前、絵画教室に一か月間ほど、通ったことがあった。結局は、石鹸のデッサンさえ描けなくて、やめてしまったが、意外なことを発見した。写真で撮った海岸、額縁に入れたそれを観ながら、キャンバスに描いていた人がいて、講師の男性は黙って観ていたのである。

 海岸に行けば風は強いし、寒いであろうことはわかるが、室内でそんなやり方をすることに、すごい疑問を感じ、時代そのものがデジタル技術に犯されていると思った。現場に行けば、予想外の光景や出来事を発見し、それが材料になることを、教室の講師は教えないのであろうか?そのことが本人にわからないのか、そして、芸術とは何か?を知らないのであろうか?

 写真を観ながら絵を描くのであれば、写真そのものをを加工した方が正確だし、精巧な方法もパソコンには入っている。技術と芸は明らかに異なるのである。テレビ・ドラマをわたしは見ないが、脚本、映像、演技などがあまりにも技術的に処理されていて、リアリティが薄く、迫って来るものがないからである。

 それは、今の世の中もデジタル加工され、メディアもそれに倣って事実を加工しているので、現実はますます遠ざかり、意外な出来事が起こって初めて顔を出す、という怖い世の中になってしまっている。

デジタルは奇形を産む。

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nakamura 2019-7-18 6:01

  今の時代は百年先には、デジタル時代、と呼ばれるのではないか?あるいは崩壊して、違う時代が訪れているかもしれないが、矛盾の害は奇形を産み続け、発狂に至ることはまちがいない。同じ一万円でも一か月の米のためのそれなのか?娯楽に使うためのものか?によって価値は大きく異なるがデジタル的価値基準では一万円なのであり、違いを求めるとすれば、(使用目的)という異なる領域をつくらなければならない。中には、その金でメシが食えなくても娯楽のために使う方が良いという人だっているだろう。デジタルは見わけがつかず、目先の数値に振り回され、社会や世界そのものがとんでもない方向に進んでいることに気づく者は少ない。年金の問題やGNP,GDPなど政府の掲げる数値がことごとく彼らの都合の良いものばかりで、実態を反映してはいないのである。金権主義を民主主義と言い換えたり、国家公務員試験と言う難しい試験に合格しながら、公僕という言葉を知らない公務員がたくさんいたり、目に余る社会は方向を失わず、着実に崖っぷちに向かって進んでいる。

 幼児の頃からゲームやスマフォで育てられた者達は何の疑いもなく、デジタル信者として生きていくしかないのである。数日前の総理大臣の街頭演説の時、ヤジを飛ばした者二人が、警察官にごぼう抜きされたように、事実を言えば権力が牙をむく。わたしが六年前、海老津駅南開発反対運動で町議会でヤジを飛ばし、議員が警察を呼んだのと同じである。

 発達障害やひきこもり、認知症など精神の弊害は増えるばかりである。

デジタル社会の宗教。

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日記
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nakamura 2019-7-14 9:27

  一年前までは、キリスト教の某教団に通っていた。そこが初めて聖書を学んだ教会であったので、教団の書いている解説書や信者の話すことをそのまま信じるしかなかった。そこでは、壇上から神父が解説書に書いてある質問をし、信者の幼児までが手を挙げて、解説書に書いてある通りの答えをした。

 どこか、ヤラセ、くさい気がしたが、聖書の奥深い真理を感じたが、教団のやりかたが、神にではなく彼らの方にひっぱろうとする傾向が見えた。信者たちは人生を奉げても神に尽くし、布教活動を毎日、行っていた。聖書に書いてあることはすべて事実であり、進化論は間違っている、生命の謎を解けはしないではないか?と繰り返し、挑んでいた。活動は徹底的にデジタル化され、全世界の教壇で同じ解説書を読み、スマフォには聖書の全文はおろか、スケジュールや講演内容、質問も出来るようになっている。講演内容も教団が事前に準備しているもであった。だが、信者に神についての質問をすると、聖書を開くが、書いてないことは答え切らず、神に聞いて下さい、と言う。だが、信者たちの顔は輝き、この世は天国だという笑顔を絶やさない。

 わたしは一年前から、伝統的な教団に通い始めた。

 聖書に書いてあることは事実ですか?と神父に問うと、それは観点が科学と異なるだけで実は同じことを言ってるのですよ。方程式で現すのか、言葉で表すかの違いです、聖書は物語的に現しているのです、と言い、わたしは眼から鱗が落ちたように、すっきりした。

 あいまいで対立する聖句もある、これがアナログなのであり、デジタル的にすすむことは、実はファシズムの傾向である。すべての宗教にデジタルが入れば、まちがいなく、(世界統一教会)が出来るであろうし、始めに書いた教団は、異なる宗派を間違った宗教、サタンと呼んで排斥しながら、まちがいなくその道を歩んでいると思う。

総合的判断力。

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nakamura 2019-7-13 11:33

  今日の毎日新聞に、大学入試センターが、(数学で検討していた文章記述の問題導入を見送る方針を決めた)と書いている。少しわからない内容であるが、数式で回答する問題の正答率は10.9パーセントで文章でのそれは3・4パーセントであったことが理由であった。

 これをアナログとデジタルの領域で考えてみると、よくわかる。細かい数式分野は得意であるが、総合的な判断力が求められるアナログ分野は青少年においても確実に劣化したと言う事である。政治やビジネス、すべての分野において、総合的な判断力が劣化し、小手先の手法が横行している。北朝鮮の外交政策、米国、日本、すべての国の政策を省みれば、よくわかる。北朝鮮の核の政策、米国の移民排他政策、貿易政策、日本の米国追随政策など、自国が少しでも有利になれば良い、という狙いで、いつまでもムダなエネルギーと金を費やし、世界を疲憊させている。政治ブローカーが横行し、政治家は姿を消している。

 発達障碍者、と呼んでも過言ではない。

 実生活においても、除草剤は害がないと言って、まき散らす農業者がいたり、開発といって環境破壊をし、20億円の金をどぶに捨てる、いや、それで票をとった町長もいる。

馬鈴薯収穫祭。

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日記
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nakamura 2019-7-13 6:40

  7月4日に、ジャガイモの収穫祭、をした。(年金の会)の主催で、私のつくった野菜を料理し、アコーディオンの演奏で懐かしい歌を歌い、談笑した。15人ほどであったが、テーブルの上に盛沢山の料理が花を咲かせ、アコーディオンが華やかに生を謳歌する場はすごく心地好かった。

 わたしは肉じゃがをつくった。大鍋の中に、ジャガイモ、ニンジンを入れてそのまま空焚きし、かき混ぜる。水分がなくなった頃、肉を入れてかきまぜる。玉ねぎを入れて味と水分を出させる。ジャガイモが柔らかくなり始めた頃、醤油を垂らす。

 それで、出来上がり。

 調味料は醤油以外、いっさい、使わない。そばにいた主婦はその調理法に驚き、信じられない、と言った。わたしは逆に自分の調理法が独特であることを知った。6年前に心臓のバイパス手術を終えた時から、糖質ダイエットの本を買い、それにしたがって自炊し、自然農法で野菜をつくっている。毎月、通う病院で採血すると、血糖値は70を切る時があり、少し、低血糖になっている。手術の前の血糖値はそれの二倍はあった。体調も良く、毎日、散歩してるせいもあって、主治医は術後より、心臓の調子は良いと、言う。

 スペイン風オムレツ、ポテトサラダ、トマト、黒ゴマぱん、ピザ、ジャガイモスープなどが皿に盛られて、花園を飾った。

 食べ始めると、甘い!美味しい!の声があちこちで上がった。

 ジャガイモも玉ねぎもトマトも通常の肥料・農薬は一切使わず、それらの代金はタダなのである。それで市場に出ている野菜より甘く、美味しいのである。甘さは糖分の甘さではなく、野菜本来のものである。

 ところが、自然農法に対して一般人の反応はほとんどないのである。彼らは環境破壊も人ごとの様にとらえ、ともかく安ければ良い、という考えである。そんなことを言うわたしだって、この前、産直店に出荷した時、ピーマン一袋、50円のがあったので、喜んで買ったのである。

デジタル社会の文化。

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日記
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nakamura 2019-7-11 13:21

  今朝、また、変な夢をみたが、ほとんどの夢は変なのが多い。会議の時に、チャチャを入れられるような感じで、不快であるが、的を得ているのである。

 いつもの布団の中に寝ている自分が、モルタル・アパートの二階の部屋で寝ていた。明るいが、がらんとした殺風景な部屋であった。そこに小学生くらいの子供たちが動き回っている。部屋の中は散らかり、彼らに声を掛けても知らん顔で好き勝手なことをしている。

 ここはどこなのか?思い出そうとしてもわからない。子供たちの母親らしき者の顔も見えた。

 不安感が湧いた。自分は、金が一円もなく、財布は落としたのか、ポケットの中にはなかった。

 嫌な夢なのに、その世界から離れたくなかった。現実ではないから、責任はなく、見てれば良いだけである。

 部屋の外の庭が明るみ、朝が来たのがわかった。

 夢の分析をすると、驚くほど的を得ている。以前、住んでた家を取り壊すつもりで、家具を全部、運び去った。その時の殺風景な食堂間の印象、その耐えきれない淋しさがいつまでも心の底に残っていた。現在、金がすっかりなくなっていることなどが、夢の原風景なのである。

 悲しさは心地良いものでもある。イタリア映画の傑作(ひまわり)を見て、感じる。悲しみ、それを観たくて味わたくて、ユウチューブで何度も観ている。悲しみは嫌でもあるし、心地良くもある。

 つまり、人間の感情には同じ現象に対して、相反するものが同居しているのである。プラスとマイナスと言っても良いが、両者の性質は実は同じもので量の違いでしかない。多い方が+で少ない方が?である。

 これがデジタル、AIで認識できるか?

 認識できない。

 デジタルは悲しみは、良くないことだと認識させられば、良くないことだと決定してしまう。文化や芸術は、陰翳礼賛にみられるように対立物や曖昧さによって効果を出すことが出来るが、デジタルは出来ない。AI歌手やAI小説など囁かれているが、姿を現しはしない。不可能であるからだ。

 製造業、芸能、流通業、農業などあらゆる分野をデジタルは占領したが、残る文化・芸術では手をこまねている。小説家は芸能人になり、小説が大量活字生産物になってしまっている。デジタル資本主義に征服されれながら、文化・芸術は消えていくであろう。その時、人間と言う種族も消えてしまう。

殺される時の悲鳴でイノシシを撃退する。

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日記
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nakamura 2019-7-9 7:58

  一昨日の日曜日は、障害者会のグランドゴルフがあり、参加した。会員は減っていくばかりで、活気はなかったが、いざ、始めると面白くなった。老人ばかりであったが、世間話をしていると、面白いことを聞いた。イノシシの被害の話で、その老婆の家は山里にあり、庭にまでイノシシが入って来るので、箱罠をしかけたりしたが、子イノシシしか入らず、被害は消えないという。

 ところが、新聞でこんな情報を知ったという。殺される時のイノシシノ悲鳴を流すと、怖がって来なくなるということを知って、ある電気製品会社の社員が装置を作ったところ、注文が殺到して、生産が追い付かないという。わたしは電気店に行って、その話をし、個人で装置がつくれないか?助言を求めた。店員は山の湿気が再生装置に悪い、テープの再生は劣化する、CDはエンドレスにすると、傷だらけになる、スピーカーがいる、電源は充電式乾電池にする、など良い話をしてくれた。

 さっそく、来年から、取り掛かってみようと考えたが、イノシシの立場になると、微妙な気持ちになった。確かに来なくなるであろうが、わたしが竹の子掘りに山に行き、一日中、その悲鳴を聞かされると、自分自身が気が狂うのではないか?ということであった。

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