ブログ - 201901のエントリ

次回作ー娘みたいな君。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-1-24 6:20

  掛け持ちの仕事になって、夜の二時までスナックで働いている、と聞いた時、大変だね、と言ったものの、家に帰って思い返すと、自分の眼に涙が滲んでいたよ。部屋の入口に立った君の背中で、二階への階段を、両手で這い上って行く小学一年の息子の姿が、その言葉と重なり、五十年前の美恵との生活がはるか彼方から引き寄せられてきた。美恵と君はほぼ同い年、と言うのは五十年の歳月を切り取った場合のことだが、どちらもシングルマザーで、肉のすっかり削げ落ちた顎は、瓜二つだった。きれいな顔と目で見詰められながら、可哀そうになった。美恵が生まれ変わって、僕に会いに来た、と考えるのは妄想だろうが、ぼくには現実として感じられる。

 父親と娘ほどの歳の差、という事実は超えて、きみはぼくに、ハンサムと、と言ってくれた。いろんな女から拒まれてきた人生で、君と美恵はぼくを認めてくれた数少ない女なのだ。

 スナックの男客に絡まれたら、わたしには怖い人がいるから、と言ってみたらと言うと、それ、使わせてもらう、そっちのほうにはもう興味ないけどね、とこたえたけど、ぼくにはどうなんだろうかね?

 二人の小説は始まったばかりだ。

 面白い作品仕上げてみようね!

体を寄せ合えば暖かい。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-1-21 3:51

  三日前、インフルエンザにかかっていた。時々、咳が出て、体がだるく、寝ている日もあった。これで、死ねるかな?と、少し、期待していたが、咳も止まり、散歩も農耕作業も出来ろようになった。

 昨日は身体障碍者の会の新年会に出席した。入会して三年になり、毎週のカラオケ練習にも参加しているので、顔なじみの友達も出来ていて、弁当を食べ、ビンゴをやり、カラオケを歌うだけであったが楽しかった。集いの家、という町営の建物をいつも使わせてもらっているが、町の財政難(海老津駅南開発のため、20億円を投じた)のため、その土地が売られるという。やはり、あの開発は無意味であったのだ。

 弁当を食べながら、しゃべった。

 自分の持っている竹の子山のいのしし被害について話した。二週間前に行ってみると、すでに十本以上の竹の子が掘られ、盗られていた。被害を食い止めようと色々調べたが、電気柵しかなかった。三万円以上はかかるので、有刺鉄線を張ろうと考え、実行することにした。二人の友達も加勢するというので来月の始めにすることにした。一万円以内で収まりそうである。掘れたら、産直店に出して、生活の足しにしなければならない。

 彼らはもちろん、無償でやってくれる。ここで考えたのは、義理とか恩とかいう、古い?精神がいかに大事かということであった。残念ながら、民主主義の個人主義と資本主義がその大事なものを壊してしまった。共同体を成り立たせているのは、義理と恩であったのだ。

神と別れた日。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-1-19 6:54

  二日前、その教会にいつもの通り、バイクで行った。聖書の個人講義で、毎週、一年間、通ったことになる。わたしと神父はその小部屋で解説書を出して、向き合い、わたしは朗読するように言われて朗読し、彼は解説書の下に書いてある質問を読む。

 (神の王国はいつ行動を起こすか)

 (それは聖書研究者たちが研究した結果、1914年であり、神の王国はまもなく人間の政府を滅ぼし、地上は楽園になる)ー啓示14:1,4

  そこで私は質問をする。

 (人間の政府を滅ぼして、どんな楽園にするのですか?)

 神父は黙っている。

 (資本主義の体制は捨てるんですか?科学文明はどうするんですか?利便性、快適さはどうするんですか?)

 (それはその時に神が決めます?)

 (その時では遅いですよ。政治家だって公約を掲げ、その方に進もうとするじゃないですか。それを考えもせず、滅ぼすんですか?他の宗派はどう言ってるのか興味がある)

 (じゃあ、行ってみれば良いじゃないですか?)

 (そうでうすね。こことはずいぶん違うだろうし、ただ、基本的には宗教は宗教でしかあえり得ないし、政治にはそれだけの具体性と実行力が求められる。宗教が政治と分離したのはそこにある。民主種義体制において、政教一致は北朝鮮の国くらいのもんでしょう)

 (あなたのことは他の信者からよく言われる。一年間も通っていながら、まだ、信者にならないのですか?)

 (それはそうでしょうけど、信者になりたいほどのものを見いだせないんですよ。聖書の聖句の素晴らしさは十分教えてもらいましたけど、神を信じることは出来ませんでした)

 (そうですね。個人講義はこれで終わりにします。今後、日曜礼拝に来られるのは自由です)

 神父は言い、いつものようにポットからコーヒーを出して入れてくれ、小粒のチョコレートを出してくれた。わたしは飲み、食べた。

 (これが最後だろう。もうここに来ることは無い。十分に勉強をさせてくれた)

 帰ろうとして、外に出ると、布教活動から帰って来た女信者達と顔を合わせた。布教活動が楽しかった、と言った。わたしは(あなたはこの前、亡くなった全人類がいったん生き返るといったけど、そうなると食糧難になるのではないか?)と訊ねた。すると、(その時は人の住むスペースが広がりますよ)というので(植物が減り、酸素の量も減るのではないか?)と問うと、答え切れずに黙ってしまった。

(ここにはもう来ないだろう)と言った。彼女らは表情を変えはせず、中に入って行った。

 それから、二三日、気分が沈んだ。神を失った喪失感みたいなものに襲われ、自分が神を少しは信じていたことが分かった。

 新しい(神)を探すことになるだろうが、出会えるだろうか?

  おーい、本当の神はどこにいるのか?出て来てくれよ!

 

花の心。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-1-7 20:08

  昨年度の末、正月への花の需要を考えて、白瑞泉を産直店に10束ほど出荷した。自分の家は広いので、白瑞泉が庭のあちこちに咲いているが、あまりに数が多いので、日頃は無視していた。稼ぎ時だと考え、三本で百二十円で出し、半分以上は売れた。

 白瑞泉を切る時、葉が離れないように、根本から、切った。すると、意外にも茎が長く、花の二十倍ほどはあった。花は小さく、八頭身の美人さながら、すごくスタイルが良いことに気づいた。そこで、考えた。花々は美意識、美観をもっているのだと。花も色んな種類に別れ、美を競い、少しでも多くの蝶や蜂に受粉をしてもらおうと考えているのだ。どんな色で、どんな模様で、どんな形をすれば蝶や蜂の眼を引き、吸い付いてもらえるか、絶えず考え、進化しているのである。

 つまり、考える力と習性をもっているのである。心を持っているのである。

 そのように考えると、彼らは私の家族の一員であり、産直店で買われ、他所の家庭に持ち込まれた花は、嫁入りしたのと同じだと考えることが出来た。

火事と喧嘩は江戸の花。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-1-4 5:29

  これは高校時代、日本史を学んだ時、記憶に残った言葉である。当時は何とも思わなかったが、今の時代の感覚と、私自身の性格との親密度においても、素晴らしい、と言える。当時の民家は木と紙で出来た寄せ木細工みたいなもので、火事が起こってすぐに逃げ出し、新しい家に住むという安易さがあったし、野次馬も家人の噂話をしながら、芝居でも見るような気分で見物していたのであろう。喧嘩だって近頃はまったく街中では見なくなったが、当時は見物人や仲裁役がいて、理由を身の上を聞きながら、教え諭したりしながら経緯を鑑賞していたにちがいない。

 (花魁歩き)というのもあって、芸を持つ娼婦が相手の男の家に通うのに、付き人を何人も付け、髪に何本ものかんざしをつけ、御姫様の着るような豪華な裾弾き姿で、天下の道を道中していったという。高下駄で地面に半円を描きながら、撫でるような歩き方で行ったという、今では信じられない光景があった。現代においては、風俗で働く女は個室でこっそりと身を売るのに、当時は天下の王道を堂々と見せびらかして歩いたという・・。男女の心中事件でさえ、悲惨さよりも美化されて、芝居になり、客を沸かせたのである。

 それに引き換え、文明開化という名のもとに、近代化され、世界の国々と交わり、戦争にまで走ってしまった時代は、夏目漱石の陰鬱な表情の写真に見られるような、まさに悲惨であった。

 封建主義から民主主義へ移行し、良かった、と為政者は教えるが、そんなものではなかった。江戸時代がもっと続いた方が良かったのである。これからは、外国人労働者の受け入れを始め、高齢化も含め、様々な変化が予想されるが、人間は皆、同じであり生活も変わらないのだから、火事と喧嘩は江戸の花、というくらいの心意気で生きていければ、と思う。

不完全がつくる完全。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-1-1 9:27

  あるキリスト教宗派の信者たちは、人間は不完全ですから、といつも言い、完全である神、を持ち出してくる。自分はそれはそうだと思いながら聞いていたが、昨日、友人との会話の中で、待てよ、と考え直した。

 信者たちはジグソー・パズルを例に出し、聖書は四十人の使徒たちによって、さまざまな職業の人が関わって書かれているが、読み上げるとジグソーの作る絵のようにまとまるともいう。それはそうであろう。なぜなら、人の手によって何度も編集された作品であるからだ。

 四十人の使徒の一人も、聖書の項目の一つも、それだけでは不完全であるが、まとめ上げれば完全な作品になる。つまり、不完全が完全を創り上げ、不完全は不完全同士が補完し合って、共生し合っているのである。

 生命の構造や人の種類、社会、政治などすべては不完全の融合によって出来上がっている。

  それは製造された製品の場合もそうである。車のタイヤはそれだけの性能を持っているが、車に取り付けられて初めて役割を持ち、同時に、車もタイヤが取り付けられることによって車になる。それだけでは自立できず、独立しえないのである。

 構造と言う考えからとらえてみれば、男と女、性的少数者、障害者などに区分しなくても、人間そのものが不完全なのであり、それが集まって社会や世界を作っているといえる。一人で生きる人や生命体は存在しえない。

 区別はあっても、差別は無意味であり、構成要素という意味においてすべてもものは対等なのである。足の不自由な人がいたら、手を自然に差し伸べてあげる。これが構造への補完であり、すべての世界はそのようにして構成され、動いている。動いていると言う事は完全であると言う事だ。

  そのように考えれば、ほとんどの人や世界の存在と動きが納得できる。自分自身や他人に完全を求めるから、人間関係のトラブルは発生するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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