ブログ - 201407のエントリ

16才の地図

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-7-29 22:32

 7月17日、長崎で16才の女子高校生が殺人容疑で逮捕された。同級生の女を殺し、首と左手首を切断したという。

 言葉の出ない事件であった。16才という年齢、女という性別に驚きを禁じえない。

 67才のわたしが16才の時代を想像することはむずかしくはない。手で手繰り寄せればあの時代の感覚・心がよみがえってくるし、あの頃の心の未熟さそれゆえの豊穣さを考えると二度と帰っては来ないという喪失感に陥る。誰もが芸術家であった時代であり、感性そのものが作品であった。一昔前は17才が危険な年齢であったが時代の流れがはやく1才下回ったのである。

 加害者は世界の15才の少年・少女たちのが抱えるストレスを一人で集め、行為に走ったのだ。母親が亡くなり再婚した父親から遠ざけられ、一人住まいのマンションの部屋でどんな孤独を抱えていたか?わたしは自分の人生を振り返るとその耐えられない重さに圧倒されていたことがわかる。教育の基本を失った学校生活が彼女の心を救うことはありえない。わたしが学校生活を振り返ってみるとよくわかる。受験マシーンでしかない教員たち、金食い虫の教育委員会などは文部科学省の役人どもの奴隷となり子供達の青春を食い物にするのが仕事である。

 加害少女の異質性に気づき、それを探って伸ばし社会の中で活用できる場を与えることは出来ないのか?人を殺してみたかった、と少女はいってるがそれであれば人殺しを必要としている分野や死体を取り扱う業種があるではないか。戦争や殺人はないほうが良いが、自然界のストレスがそれをむ限り、なくなることはないし、崩壊も再生のためには必要なのである。アメリカは世界平和を訴えながら海外侵略をやめない。かれらは侵略などとは思っていない。聖戦なのである。自国が起こす戦いは正しく、他国がやるのは侵略なのである。こんな矛盾が世界を統制してる世界でまとも(?)に生きるなんて至難の業である。そんなすべての矛盾が軟弱な少年・少女たちを襲い、凶行に走らせるのである。

 戦後を振り返ってみれば戦前では想像できなかったあるいは発生しなかった青少年の悲惨な事件が多く、驚かされる。

 わたしは学校時代を思い出すたびに憎悪に燃える。教員達は教育の原理をどのように理解してるのだろうか?生徒の心のことは忘れ、学科で高得点をとり一流(?)大学に入ることが立派なことだと、資本主義の手先となってマニュアル漬けの仕事に埋没してるのだ。

 50年前からまったく進歩のない連中が血税を食い物にし、責任もとらない。教育を民営化しろ、競争原理を導入しろ、と言いたい。武雄市が学習塾の講師を教員にしてみる取り組みをしているように、教育業界の市場開放をし、本当に価値のある運営者だけを残すようにすべきである。

 殺した少女も殺された少女も教育業者たちの犠牲者である。社会の生贄なのである。

希少人からもらった元気

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日記
執筆 : 
nakamura 2014-7-21 8:39

 昨日、ある人の庭に草むしりに行って来ました。70才の「女性で、生まれてから小児ガンにかかり顔に腫瘍が出来て変形し、転んで、脚の皿にひびが入ったということです。顔も打って青ずみ腫れていました。整形外科に入院していますが退院は3週間くらい先だということです。後に残した町営住宅の庭で、伸びた草がまわりに入り込んで迷惑をかけてないかと心配していました。

 わたしは軽ワゴンに道具をのせて、岡田君と現地にいきました。畳6枚ほどに張り出した庭は主を失って荒れていました。ジャスミンがフェンスにまきつき、紅葉、ミカン、柿に木が伸び、植木鉢は100個近く乱雑に置かれ、草は伸び放題でした。皇帝ダリヤ、トマト、ツワ、イチゴ、スズランなどを植えてるとの説明が彼女かありましたが、ヤブの中にかくれてわかりません。ともかく、木の剪定や草むしりを初め、2時間くらいで片付いて、病院に行って彼女に写真を見せながら再度の指示をしてもらいました。昼食をして、また現地に行き、植木鉢を元に戻し、柿の木を切り、はびこっていたシダやカラーを刈り取りました。ベランダの袋からはみ出した鹿沼土は量が多くて片付けられませんでしが、三本の栄養失調のトマトには支え木をつけてまっすぐ立て、皇帝ダリヤも倒れ掛かっていましたので紐で囲って真っ直ぐにしてあげました。

 病院に行って彼女に結果を説明すると、すごく喜び,満足しました。ケイタイを取り出して撮った写真を見せながら、庭の花々の思い出を話し、イチゴは肥料もやらないのにあちこちに伸びて実がたくさんできたとかトマトは赤く色づいてましたか?とか聞いてきました。一人住まいの彼女にとっては花々が子供・兄弟たちであり家族であったことがわかりました。菜園作りをしているわたしはその気持ちが伝わってきました。そんな中で自分の身の上話を始めました。小児ガンにかかり骨が変形してうまく歩けず、学校にも行けなかった。兄弟が6人いて母親は6人分の弁当をつくり、みな学校や会社に行ったが自分だけは家に残って弁当を食べ、本を読んだりした。文字や計算は兄弟が教えてくれた。

 わたしはカメラを取り出し、自分が撮った写真を見せました。紅色の羽根をして小枝に止まった川トンボ、それは川面を背景にしていました。彼女はおどろき、(まあ可愛い。このトンボは見たことがあるわ!)と言い、場所を尋ねたので教えると彼女の住む町営住宅の近くでした。行ったことがあると言いました。糸を銀色に輝かせた蜘蛛の網を見せると、見入っていました。わたしの写真にすごく感動したのは彼女くらいなものでした。

 学校にも行っておらず社会経験も少なく行動範囲も狭い彼女は、幼い頃の感受性をそのまま残してるように見えました。彼女の感動と幸福感がわたしに伝わり、少し疲れていたわたしは元気を取り戻していました。

 すっきりした気分になっていました。

 彼女はわたしと岡田君にお金を払おうとしましたが、わたしは、無償が原則だしあなたから元気をいただいたのでお金は要りません、と断りました。彼女は何度も払おうとしましたが、お言葉に甘えまして、と下がりました。

 初めはタイトルを(身障者)と書いていましたが、どうも納得できませんでした。希少人なのです。これからは世間もその言葉に変えるべきです。

 支える者は支えられてもいる、のです。人間のみならず自然界の動植物においてもこのことは真理なのです。後にわかったことは彼女が活発な人で、スーパーに買い物に同行しても客のお婆さんおじいさんから話しかけられ、どうしてたの?近頃見なかったわね、と寄ってこられるということです。皿洗いや掃除婦の仕事をしたこともあり、結婚したこともあり、身障者団体の役員もしてるということでした。

わたしにとってこの人はまだ学ぶところがたくさんある人です。

 

 

 

昆虫少年に出会った。

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日記
執筆 : 
nakamura 2014-7-15 9:03

 山の道を歩くようになって二年になります。往復一時間ですが、この世界では誰とも出会わず、鳥たちのおしゃべり以外には音もなく、今ではブヨの群れがわたしの目や体の塩分を求めて寄ってくるだけです。羽音が生き物の存在を伝えるだけです。

 ある日、捕虫網をかざした少年を前に見つけました。道草にいた蝶をすくおうとして逃がしました。

 「ほう、珍しいことしてるね、もう何年間もこんな光景は見なかった。ぼくも三十年前にここで採集をして、三つの標本箱の虫たちはそのままの姿でいるよ」話しかけると、彼はわたしと向き合いました。環境保護の仕事でこの町に来て、採集をしてる、三ケ所移動してる、などと言葉少なげに答えました。

 週に一度くらいは彼と出会い、話しました。

 宮城県の気仙沼の生まれで、東京の専門学校で環境保全を学び、北九州市の環境保護団体で働いていることがわかりました。彼はわたしの末の息子と同じ歳なので、まだ社会経験が少なく、寡黙なのがわかりました。近所の友人にこの話をすると、蝶を追ってるより女の尻でも追ってる方が楽しいだろうが、と応えましたがわたしは自分の青春時代を思い出し、新鮮な気持ちになりました。小学生の頃、わたしは昆虫学者の夢を抱いていましたが理数の成績が悪く、夢破れて、なんとか生きてきましたが、老後は環境保護のお手伝いでもしたいと考えていました。

 少年はその環境保護団体が自然塾を開くことも予定しているとか、岡垣町のボランティアグループにも登録してるとか言っていました。気仙沼の生まれの彼が東北大震災でどんな目にあったのかどんな考えになったのかなどは直接には聞けないことなので聞いていませんが、興味のあることです。岡垣町に登録してるという話から、こんなことを考えました。岡垣町が自然調査の仕事を依頼してきたら、町役場の都合の良いデータを出すのではなく、真実を出して欲しい、ということです。東北大震災の重大な原因は御用学者や団体などが金のために真実を隠したことにあるからです。

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