ブログ - 201405のエントリ

草たちとのミーティング

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-5-27 7:14

 うちの畑地は100坪以上はあるのに、草刈機も小型l耕運機も持たない。スコップ、クワで耕し、鎌や手で草を刈り取る。まわりの菜園作りや農家を見回してもそんな原始的農法をしている所はなくなった。金ができたらそのうち買おうと考えているが、初夏が近づくにつれて畑が草に埋められてしまいどこに何が植わっているのかわからなくなった。きちんと区画を決めて植えているわけではないし行き当たりばったりだからますます雑然としてしまって畑地だか荒地だかわからなくなりつつある。自然農法を計画していたこともあって雑草も気にしなくなっていた。

 たしかにここに2月頃にエンド豆をまいたはずだと考えながら、草の藪を掻き分け一本一本調べていく。隙間なく密集している。お茶葉にするドクダミ・ヨモギと雑草を選り分けて抜き取り、えんどう豆を探すのは大変だ。おお、ここにいた!と発見するとたくましい雑草の中に埋もれ、弱弱しく生えていた。よく生きていてくれたな、と蔓を引き離してやると、一ヶ月前のも同じことをしてやったことを思い出した。一ヶ月たつと雑草たちも元通りのヤンチャ姿に戻っているから始末が悪い。えんどう豆の細い蔓を指でつかみ、これからはこの竹棒につかまって伸びていくんだよ、と細いツルを竹棒に何重にも撒きつけてあげる。うまく巻き付く者もいるけどずるずると崩れ落ちる者もいる。逆周りに巻きつけるとうまく掴まるのもいる。この竹棒から手を離すと伸びていけないんだよ、子供達を相手に教えてあげる。

 わたしの教えに従って6本がまきついた。40個ちかくの種をまいて芽を出したのはこれだけだった。

 雑草の王者であるヤブカラシを引き抜いていく。その名前の通り野菜にも草木にヘビのように絡み付いて枯らしてしまう悪ガキである。根はナイフでも切れないような硬さで深く地中に潜り地面のあちこちから伸びてくる。お前達が薬草にでもなればいいだがな、と思いながらその強さに感服する。

 となりの畝に植えていたキャベツ、カリフラワーは大きく成長していたが、野生の野菜になっている。雑草に混じって成長したので葉は2倍くらい大きく中味はすごく硬いが本来の味がじゅうぶんに強い。

 遊園地で子供たちの相手をしているみたいでけっこう楽しい。草刈機で刈っていけばこんな楽しさは生まれない。専業農家の田植えや稲刈りを見ていると農業ではなく工業である。あれでは雑草や水中生物の命はわからないし、除草剤でもまいて消してやれ、という気持ちになるのであろう。工業は人間の労働や生活を楽にしてくれたが、(心)を奪ってしまった。たまには本来の農業に戻らないと自然は荒廃していくばかりである。

人殺しにも人助けにも同じ合理性がある。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-5-17 21:25

 世間の人は人を見る時、あの人は良い人とか悪い人とか言って評価をするが、実はどちらでもないのである。67年間にわたって人間業をつづけた結果、そのことがわかった。わたしがこれまで殺人も傷害も強姦もせず、刑務所のお世話にならなかったのはそのエネルギーが発火点に達しなかったあるいはそこにいたる条件が揃わなかったにすぎない。憎くて殴り殺してやりたいヤツは何人もいたが、警察に囚われたり後悔したり身内に迷惑をかけたりする面倒が嫌で、それなら世間の常識どおりに生きたほうが楽だと考えたからに過ぎない。犯罪の実行犯とわたしは紙一重の差でしかない。

 人をナイフで刺し殺した者が帰り道で川に流されそうになった子供を助けることは実話にでも小説世界にでもありえる。世間では悪いことと良いことで分類するが、刺し殺す時に覚える優位性・破壊活動の快感と助ける時に覚える優位性(自分が助けられる者より優越している)・救助エネルギーの快感は同じエネルギーにちがいはない。そこに世間の価値観が影響するかしないかの問題にしかすぎない。だから殺人も戦争もこの世からなくなることはない。

 (善人救わるいわんや悪人をや)という親鸞の言葉はそのことを示している。

 新しい哲学が登場しなければならない。人権民主主義の餌食にならず、人間そして人間社会を動かしている法則をみつけ、いかなる現象にも内在する真理を誰にもはばかることなく宣言できる言葉が登場しなければならない。哲学の復権であり、それが人類を迷妄と統合失調症から救う。戦時中には精神障害者が少なかったのは良い悪いは別にしてきちんとした信念・思想があったからである。

 宗教は人心の法則を唱え、科学は自然の法則を見つけ、哲学は人間・社会の法則を探す、芸術はテーマを表現するが、それらは元は一つに統合されていた。いつの時代からか分派してしまい、基本命題が見えにくくなってしまい、近代以降は精神的混乱がつづくばかりである。それらを統合して元に戻さないと時代の統合失調症はますます重症の度合いを強めるばかりである。

 最近、こんな話を耳にした。ある農家では草むしりが大変なので、除草剤を肥料に混ぜて畑にまいていると!なんと恐ろしいことを!そんな野菜を食べる人間はどんな人間に変わっていくのでしょうか?これが現実であり、着々と崩壊に向かって進んでいるのです。

 67年にわたる人生の中でわたしはいろんな人物評価をいただきましたが、その中でもこの言葉は印象的なものです。今でもNHKの営業副部長から言われた、あなたは今の時代に生まれてくるべき人ではなかった、という言葉が何を意味したのか薄笑いを浮かべながら考え込むのです。

 10年前の6月でした。1チームの飲み会があって、博多の居酒屋で仕事仲間や職員達と飲んでいました。一年前に赴任したN営業副部長が各チームの飲み会を訪れ、集金スタッフの労をねぎらっていました。彼はわたしの隣に腰を下ろし、鍋から鶏肉を皿によそってわたしの前に置きながら、静かな声でその言葉を言ったのです。わたしはどう応えていいのかどんな意味なのかよくわからず、黙っていましたが、なんとなく理解できて笑いました。彼はその言葉だけしか言わず、わたしも二人の間合いを黙って味わっている状態でした。

 わたしが委託契約で仕事をもらったころ、かれは一般営業職員でした。おとなしくて真面目で、(トッチャン坊や)の雰囲気がありました。スタッフが領収書を落としたと言えばスタッフが訪問した先を一軒ずつ回り探しました。彼はわたしの上司でしたが、わたしの抜群の成績もあって係長になり、転勤し、営業副部長になって戻ってきたのです。

 わたしは労働組合の分会長をしていましたので団体交渉の際は彼と対峙することになりました。わたしは性格上、上司といえどもいっさい斟酌しないので言いたいことを言いました。ーわたしたちは成績が下がれば特別指導という(首切り装置)をかけられ給料も下がるのに、なぜあなたたちはペナルティもなく給料も下がらないのですか?特権階級なんですか?同じカマの飯を食ってると言いながらまったく違うじゃないですか!ーこんな攻撃を興奮してしつづけました。彼は言い返すこともなく黙って聞いていました。

 仕事の上では同じ仲間として接しました。

 (今の時代に生まれてくるべき人ではなかった)という言葉はこんな経緯から出たものですが、はじめは(貶されたのか)と考えることもありましたが、今では(よく言ってくれた)と感謝も混じる心境です。彼だけでなく他の人からもだいだいそんな評価をされています。(今の時代)でなければいつの時代に生まれるべきだったのか?戦国時代を彼は想定していたのでしょうか?そうすれば(人間50年、流転のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり)と詠った信長ですが、わたしは50代前で戦死しているにちがいありません。2年前に心筋梗塞に倒れましたが、67歳まで生きてるなんて、頭が高い(もう一人の営業副部長にいわれました)のです。

 

 

のです。

死の価値

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日記
執筆 : 
nakamura 2014-5-13 4:44

 近頃のニュースで消息不明になったり行き倒れになる認知症老人が年間に一万人だとか、老人ホームの待機者が多いとか老人医療に金がかかりすぎるとか、老人の介護業務で腰痛にかかる職員が多いとか、今の社会にとって老人はすごい負担になっている。それは事実であるが、その一面を人権民主主義と資本主義の視点からでしか捉えきれないから問題を複雑にし、行政に仕事を増やして社会福祉への税負担ばかり増やすという堂々巡りばかり繰り返している。

 ここまできたのだから安楽死をなぜはっきりさせて積極的に導入しないのか不思議である。安楽死は人権に逆行する考えだからとか政権与党への支持者がへるとか、医療関係業界の需要が減って景気にも悪い影響をあたえるとか、そんな(利害関係)がからんでいるにちがいない。オランダあたりでは(赤い玉)を飲んで楽に死ねるという話もきくのに、日本だけはいつまでも生に執着してイジイジしてるように見える。日本には武士道に死の美学があったし、深沢七郎の(楢山節考)におけるように(オリン婆さんは楢山参りに行く日を楽しみにしていた、という文章から始まっている。近代以前まで死はそんなに忌み嫌われるものではなく、自然の一部として日本に定着していたのだ。日本が太平洋戦争で負けるやいなやすっかり否定され、アメリカの人権民主主義にお株を奪われてしまった。

 14,5才の元服の儀式から死の作法を学ばせたという歴史からも日本は(死の価値)をもっと認めるべきである。老若男女を問わず、生きる目的のある人はサポートしてあげるべきだが、もう十分に生きた人だとか末期で助からない患者だとか死ぬほうがましだという人も援助してやってだめなら、安楽死に同意するなら実行してあげるべきである。自然界における循環システムー木から落ちた枯れ葉がまた樹の養分になるという生活ーを学ぶべきである。

 意識のはっきりしてるうちに(死)の準備をしておくべきである。コンビニに(安楽死申込用紙)が備え付けられていてもおかしくはない。

 そうすれば老人ホーム問題、老人医療問題、認知症問題はかなり解決がつくのである。死んではいけない苦しんではいけない病気になってはいけない、とばかり言って問題の基本命題をつかず長生きさせることばかり言っているから問題を複雑にし先送りすることになってしまう。

 生きることに価値があるように死ぬことにも価値があるのです。崩壊があるから再生があるようにいつまでも崩壊(死)がなければ再生はありえないのです。

 (死なない人生)があったとしたら、あるいはいつまでも(覚醒した意識)があったとしたら、それを選び取りますか?

 誰もが(人権民主主義だから幸福である)と信じ込まされ、テレビ漬けの毎日に布教されている生活。それに異議をとなえると、(あなたは民主主義を否定するのですか?)と非難されたことがありました。一瞬、その言葉にひるみましたが、今ではこれが普通の人の反応であり、彼らは洗脳されており、わたしも洗脳されてきたことがわかりました。人権民主主義に疑問を持ち、おかしいという人は(非国民)なのですが、戦前は人権民主主義が良いことだと信じ軍国主義を否定することが非国民であったのです。どちらが正しいのでしょうか?端的にいえば多数派につけば正義なのです。奇妙な反転現象ですね。

 岡垣町議会の傍聴に行き、住民投票運動に関わったことでこの世界の仕組みがよくわかりました。人にはそれぞれの個性があります。その個性を活かすのではなくテストで良い成績をとり有名大学に入学することが立派なことであるという概念、さらに出世コースにのれるという仕組みは文部科学省の役人、教育業界、受験業界の利権のためにあるのです。それは政治体制(人権民主主義)の保持のためでもあり、異議をとなえれば、(あなたは人権民主主義を否定するのですか?)と攻撃されるでしょう。利権で城を築いている岡垣町役場もおなじ構図です。

 まず、資本主義の発生から考えてみないと人権民主主義の本質はわかりません。両者は(大量生産、大量消費)という大衆原理、(多数決原理)という同じく大衆原理に根幹を共有しているのですから。イギリスで蒸気機関が発明されたことにより、資本主義は科学技術の発展とともに飛躍的な成長

をし、現在では原発の例にみられるように恐い地点まで進んでしまいました。

 なぜイギリスで近代文明が起こり、科学技術が発達したかというと、イギリスは寒い国で(霧のロンドン)と呼ばれるように陰鬱な天気の多い国で、資源にも恵まれず、島国で一民族(アイルランド人はいます)で、知性の発達した国家だったからです。

 ここでわたしは気候と国民性の関係を述べます。日本のように温帯国で春夏秋冬のある国では自然を愛する国民性は生まれても、自然と闘い自然を征服するという西欧思想は生まれません。自然と闘い自然を征服する、という思想は自然の厳しい国でしか生まれないのです。だから日本では科学技術の発達も産業革命もそれほど必要ではなかったのです。その国が資源を持たない国になって、恐れ多くも科学技術の先端をいっていたアメリカを攻撃し、戦争に負けた結果、人権民主主義・資本主義を与えられ、その快楽と欲望の世界にひきずられていったのです。

 徳川政府がペリーの攻撃を受けず、近代文明と無縁の体制であれば、日本の個性にあった国が出来上がり、貧しくとも生き生きした国民生活がつづいていたはずです。文明という禁断の木の実に手を触れたがために、現在の姿があるのです。

 グローバリズムという名のもとに世界を人権民主主義で染めていくのはニューファシズムではありませんか?その国、その町にあった国づくり町づくりをし、その子供にあった将来を導いてあげるべきです。どの国にもどの子供にも開発や資本主義の原理をあてはめてはいけません。

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