ブログ - 201311のエントリ

箱庭の街ー詩

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-11-26 10:04

 頭の上に白っぽい空が広がり

 団地の家々は箱庭の中で隙間なく並んでいた

 白い道と白い壁

 ゴミ一つない庭と道

 猫も犬も小鳥さえ声を出さず姿を見せない

 白い街だった

 人の姿も子供の声もカレーの匂いもなく

 自転車も車も見かけないが

 廃墟なのかそうではない

 清潔でルールを守るきちんとした街なのです

 真面目な人ばかりです

 でもなにかおかしい

 なんだろうか?

 そうだこれはディスプレイの中から出てきた静止画像にちがいない

 仮想の街にちがいない

 静止画像の街の中をぼくは歩き、笑顔の男を郵便受けに押し込んでいった

 ひまがあったら遊びに来ませんか!

 と男は叫び、イノシシの焼肉をいっしょに食べようよアイガモたちと遊ぼうよ

 オカリナ・コンサートもしたよ

 赤土をこねて久土をつくったからもうすぐ餅つきもするよ

 男は最大限の笑顔を見せて叫びながら

 木枯らしに吹き付けられながら、捻じ曲がって押し込められた

 わたしも仮想人間になりかけていた

 バイクで走り、止まっては

 狭い階段と門扉の穴を出入りして回った

 ネズミのように動いていた

 初めて声を耳にした

 玄関先のすみで丸い枯葉が踊り床に体をこすっていた

 大晦日はもう一ヶ月先なのよ

 新しい年を迎えるのよ

 きっと良い年になるよ

 枯葉は舞いながら男と話していた

 

中国よ、多様性国家をめざせ!

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-11-7 9:46

 尖閣列島への抗議行動、日本商店の破壊、日本商品への不買運動が下火になったと思うと、天安門の真ん中でウイグル人ののった車が炎上した。その何日前もちがう場所で似た事件があった。

 予想されていた事件の続発が今後も予想され、PM2.5の大気汚染もふくめて成長期の国には波乱が待ち受けている。現在、国家の体制をなしている国はすべて民族問題に直面したといっても過言ではない。

 黒人のオバマ氏が大統領をつとめているアメリカだって、歴史をひもとけば少数民族にとっては受難の歴史であった。そのことを知っている人さえ少なくなっていて、歴史から消されることだって考えられる。100年ほども前、奴隷商人という者がいてアフリカにすんでいた黒人達を捕らえた。また、かれらを安く買い、アメリカ南部の農場主に高く売り、儲けた。敷地内に住まわせて綿花の栽培や刈り取り、家事労働などさせた。(アンクルトムスケビン)という小説に詳しく書かれていて、この作品は世界中の人人に感動を与えた。黒人達は悲惨な生活を送っていた。

 それから黒人達に公民権運動が起こり、アメリカ政府と闘いすごい犠牲をはらって(公民権)を勝ち取った。オバマさんが大統領になったということは、(アメリカは人権国家です。中国や北朝鮮、その他の抑圧国家とはちがいます。抑圧国家は人権国家に変えねばなりません)というアメリカの国家侵略のかっこうの理由付け・正当化に道筋をつけることになるのである。

 映画(夜の大捜査線)は黒人差別問題をテーマにしながらサスペンスを取り込み、素晴らしい作品になった。主人公はシドニー・ポワチエという黒人の名優であり、テーマ音楽の歌手はレイ・チャールズというこれまたすごい黒人の歌手であった。この作品はアカデミー賞を何本ももらっている。

 DVDにもなっているので、ご覧になると感動することまちがいありません。

 前のブロッグで(多様性の時代)を書いたように時代はすっかり変わっている。多数派による少数派の支配、一民族による他民族の支配や独裁、他国への侵略は必ず失敗し、政権側の崩壊に通じる、そのことが法則みたいになっている。

 中国よ!あなたは古い歴史と知恵のある国なのだから民族問題や環境問題にきちんと取り組んでください!

 

 

 毎月、病院に通っている。血液検査を受けて、30項目ほどのデータを出してもらう。中性脂肪以外はほとんど合格点であるが、それは薬を毎日12錠も飲んでいるおかげである。飲まなければ血液が濃いくなり、細い血管が詰まって多臓器不全で死ぬことになる。まあ、薬のおかげで(死)の猶予をもらっているわけであり、誰でもいつかは死ぬわけだから早いか遅いかの違いでしかない。

 わたしを診察してる医者に訊いてみた。

 「先生、安楽死の手続きはここでもできるのですか?」

 60にちかい彼はおどろいたのか、しばらく返事をしなかった。

 「それは入院してる状態じゃないと出来ません」

 「はあ、そうですか」

 とこたえた私はその場ででも安楽死の手続きをしたかったのだが、出来なかった。次は献体について尋ねた。献体をした場合、葬儀は病院がするかどうかだったが、死体は必要がなくなった段階で遺族に返すと言うことだった。

 その二つの答えをもらって納得した。

 バイパス手術をしてもらった病院、その病室のベットに鼻にチューブを差し込まれて(食事をしていた?)患者がいた。呼吸が苦しかったにちがいない、彼はよくチューブを手で外した。看護婦が何度も注意をしたが彼はやめず、ついにはボクサーがつけるグローブを両手にはめられた。これでは指が使えず、彼は一日中眠っていた。

 あれから一年もたつが、彼はどうしてるだろうか?生きているか?死んでいるか?

 俺はこうして生きていて人間並みの生活をしているが、(死)の不安がよぎる時がある。ある意味で入院中は死ぬことが許されていたが、娑婆ではそうはいかない。(死)は忌み嫌われ、戒名をつけて消さなければ生きてる者たちの邪魔で迷惑な存在なのだ。だから、入院すると(生)から解放されてすごく気分が楽になる。

 今日はいつもの山道を散歩しながら、(死ぬのではない、この世を消してやるのだ)と考えた。これは(現象学)に凝っていた友人からの発想であるが、正直、そんな気分になった。死ねば意識が消え、見ることも聞くこともできなくなるから、外部世界も消えてしまう。

 アメリカとの戦争に負けた日本は(死)にたいしてすっかり臆病になった。武士道や特攻隊を美化するわけではないが、もっと積極的に死を受け入れても良いのではないか?これまでいろんな人々に支えられ良い思いをさせてもらったのだから、世間にたいして恨みがあるわけではないが、(もう十分だ、満足した)と三行半をつきつけてやりたい、いつでも。

野良ちゃん?と呼んでみたい猫。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-11-4 5:30

 いつもの山道を40分も散歩すると、集落の家の前を通りかかる。キジ模様の土色の猫がなんともオカシナ顔で私を振りかえる。決して飼い主に飼われるような可愛い顔ではなく、やはり野良猫特有のふてぶてしさと警戒心がある。ゴチャゴチャした模様の顔である。わたしが近づくと逃げることもなく、寝転んでは体を路面に伸ばして。背中を捻り、まだ乳を含んだ乳首のならびを見せる。体を撫でようと手を伸ばすと立ち上がって遠ざかる。近づくと寝転んで腹を見せる。うまくタイミングが合えば体を触らせ、気持ち良さそうにしている。

 近所の人から餌をもらっているのであろう、荒んだ顔だが逃げることはない。空き家を住処にしていて、その玄関先にいることが多い。

 わたしが顎や腹や背中をじゅうぶんに撫で回してやると満足げに横たわっている。別れようとその場を離れていくと、ヤブの中から黒の子猫たちが現れて母親の乳に寄って行った。

 野良猫の姿も最近は見かけることが少なくなった。(野良)の語源を想像してみると面白い。野を良しとする猫、なんとも風流な言葉ではないか。捨て猫、と呼ばれるよりはるかに良い。世捨て人、という言葉はあるが、放棄人、などという言葉はないし、もし現れたら恐い世の中になっているであろ。私の青春時代にフーテンという種族がいて野良猫に近い生活をしていた。髪は伸び放題、髭も伸び放題で街の街路樹の下あたりに座っていて、小銭が空き缶に投げられるのを待っていた。今では信じられない光景だが、彼らは一つの風俗に属していて(瘋癲、風転)と呼ばれていた。

耕作放棄地を開拓する

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-11-3 20:28

 誰が使いはじめたか知らないが、(耕作放棄地)とは奇妙な言葉である。昔から放棄された土地はいくらでもあったが、そんな名前など付けられなかった。そんな不名誉な言い方をされる土地が気の毒になるし、以前は(荒地)という立派な詩の団体さえあったのだ。

 近頃は聞かれなくなったが、(古新聞、古雑誌、ボロキレなどありませんか?画像のみれないテレビ、音の聞こえなくなったラジオなどありませんか?)と声をかけながら廃品回収業者が回っていた。それは(動かなくなったオモチャ)から(動かなくなった人間)にまで進みそうな予感がする。

 もとの話にもどると、(自然)とは人間が関わらないから(自然)なのであって関わってしまえば(自然)ではない。耕作放棄地という言葉は(人間が関わらないものの存在、役に立たないものの存在はは認められない)という尊大さを含んでいるし、(自然)や(自然状態)をも否定もしている。

 まさに現代の資本主義を象徴する言葉であるし、この時代が生んだ言葉である。

 こういうわたしは700坪の宅地の片付けが終わり、耕作放棄地に通いはじめた。約1000坪ほどの広さであるが、春に竹の子堀りに行くだけであとはほったらかしである。孟宗竹が生え放題で暗く、谷間に近い地形でおまけに石ころだらけである。チェーンソーで立ち枯れや生きた竹を切り、倒していくのだがエンジン・チェーンソーの使い方になれず、チェーンが外れたり竹の切り口にかんだりして苦労した。最初は中国製の安物チェーンソーを使っていたので何度も販売店に行ってエンジンをかけてもらったりしたが、ついに二度も返品し、買いなおした。

 枯れた竹は集めて燃やした。今では作業も順調に進み、竹と竹の間が傘をさせる広さにもっていけそうになった。陽の射すきれいな竹林が出来そうである。

 だが民家から300メートルも離れたここに誰が来るだろうか?と考える。初夏から9月まではヤブ蚊に襲われ、冬は寒いばかりである。竹の子が芽を出す頃はイノシシの運動場になり、人間が探すより先に食べられてしまう。

 だから、(耕作放棄地)なのですよ、と石ころ達は言っている。

 それはわかる。しかし、わたしにとってはそんな場所が(希少)なのである。誰も来ない所、何も無いところ、時々竹の鳴る音が(カーン)と響くだけの無音の世界、なんとも言えない自然の空気がある。開発に押されてそんなところは消えていっているが人間に酸素を補給し、pm2.5から守ってくれる貴重な存在なのである。

 こんな所、こんな人々こそわたしの友達なのである。

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