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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

インドでの話

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-3-22 6:18

 知人たちと老人介護施設の開設の話があり、参加した。元気の良い老人たちが6人集まり、話に花を咲かせた。

 雑談になり、インド旅行をしてきたと言う70過ぎた夫人が話を始めました。

 「観光バスに乗って町中を見ていると、インドの人はみんなこっちを向いて手を振ってくれてね」

 その言葉に座卓を囲んだ者たちは興味を示した。

 「みんな笑い、顔が生き生きとしてるのよ」

 「この町を散歩していても笑ってる人なんて見かけることないわよね」

 「そうねえ」

 「汚れた服装の人ばかりで、道路は信号もないのよ。車やバイクがあふれ、バイクには5,6人がのっているのよ。歩行者が道を渡るときは車を避けながらすごいスピードで走らなければならないのよ」

 「まあ、恐い」

 「ガンジス川にも行ったわ」

 「どうだった?」

 「あそこは聖なる川でインド人が体を洗うことは知ってるよね」

 「知ってるわ」

 「でもそこには死体も流れてくるのよ」

 「えー?」

 「河口で死体を焼いて灰を川に流してるんだけど、埋葬料を半額しか出せなければ半分だけ焼いて後は川に流すからよ」

 「半分の死体を?」

 「そうよ」

 「わー、信じられない」「その水を飲んだり、顔を洗ったりするのよね」

 「そうよ。ゆるく長い階段のところに行ったら、両端にみんな座っているのよ」

 まわりの者たちは耳をそばだてた。

 「わたしたちが階段を上っていくとみんな手を伸ばして金をくれ、って言うのよ。幼い女が赤ん坊を抱いて手を伸ばしてきたから良く見ると、彼女の子供だったのよ」

 「どういうこと?」

 「早熟だから子供の時にセックスをするからよ」

 「ふーん」

 「そしたらね。抱かれた赤ん坊もわたしに向かって手を伸ばしてるお金をくれ、って言ってるのよ」

 「まあ、可愛い」

 「栄養不足だからお猿さんの赤ん坊みたいだった。わたしが100ルピーを出すと受け取ったんだけど懐にしまって、また手を出すのよ。それじゃ足りない、って言ってね」

 「赤ん坊も手を出した?」

 「それは憶えてないけど、男がそばに立っていて女の人を棒で叩き始めたのよ」

 「えー、どうして」

 「よくわからなかったけど」

 「警察官?」

 「そんな服装じゃなかった」

 「物乞いをするな!っていうことじゃない」

 「男が叩きつづけるから女の人も赤ん坊も泣きながら逃げて行ったわ」

 「わー、悲惨!」

 「わたしは呆然としていた。あの親子はどうなるのかと心配し、もう100ルピーやるべきだったと考えたけどどこに行ったかわからないし、また階段を上り始めたの」

 「そしたら?」

 「両手と両脚のない男の人が何人か物乞いをしていてびっくりした」

 「どうして、手足がないの?戦争の被害者なの?」

 「ちがうのよ。後で聞いたんだけど人の同情を引くために手足を切り落としたのよ」

 沈黙が広がった。。

 「日本の戦後、戦争で手足を失った軍人がアコーディオンを弾きながら街角に立っていたけど」

 中の高齢者が言った。

 「傷痍軍人、っていうのよね」

 その言葉を知らない者もいた。

 「今度つくる介護施設は夕食も老人の人たちに出そうと考えてるのよ。うちで作った有機野菜でね」

 「それは良い。私達も食べに行っていいのかしら?」

 「もちろん」

 「どんな料理が出るか楽しみだわ」

 「あなた、またインドに行ってみたい?」

 「行ってみたい」

 

 

左翼政治闘争は利権闘争でもある

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日記
執筆 : 
nakamura 2014-3-17 18:28

 政治の動きを利権の視点で考え、振り返ってみた。すると、誤解でもつれていたヒモが解け、すっきりした感じがする。左翼は(善)で右翼は(悪)という観念を修正しなければならない。左翼は反権力で右翼は権力に加担する傾向があるが実は利権が潜んでいることに気づいたのは学生運動家であったある男性が(大学の自治会の運営権を握れば自治会費も手に入った)と言ったからであった。

 日本の学生運動が浅間山荘リンチ事件で見せた意外性と恐さは政治闘争に潜む利権闘争であったと言える。男女関係や組織の壊滅への恐怖がもたらしたあの悲惨な事件は66才まで生きたわたしの大きな疑問であった。左翼への美化に囚われていたにすぎない。右翼暴力団の思想、オウム真理教の内実、民主党の敗北、中国共産党の利権構造などを分析してみればその根幹に突き当たることになる。

 金の流れをたどっていけばその組織の本音がわかる、とある友人も言っていたが、人間関係の本質もわかるとわたしは思う。逆に、無償の関係の素晴らしさもわかるのである。

働かない人間に意義はあるか?

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日記
執筆 : 
nakamura 2014-3-14 4:01

 昨日、岡垣町議会の傍聴に岡田君と行ってきました。(一般会計予算)(一般会計補助予算)などの審議でしたが、町長・執行部と議員はその中味を突っ込んで、町にとってそんな工事が必要なのかどうかを議論するのではなく、可決を前提にしてああでもないこうでもないと形上の無駄話をダラダラとしてるにすぎないのです。本気の度合いがまったくありません。彼らはそんな八百長試合で年収1000万ちかく取って満足でしょうけど、無職のわたしと岡田君は当然無償で、腹立たしいばかりです。

 (私語をする傍聴の方は退場を願う場合がありますよ)と議長の曽宮議員が言ったので、わたしは驚くと同時に、(その言葉を待っていた。こんなバカくさい話にうんざりして出て行きたかったんだ!)と叫び、岡田君と立ち上がりました。曽宮も立ち上がり何人かの議員・執行部を隣室に呼び打ち合わせをし、戻ってきて退場を告げました。

 (町の経費削減の話もでないし、住民の目線がまったくない!)とわたしが叫ぶと、(それはまた)と宮内町長は言い、(主権在民、と言う言葉がわかってるのか!主権はこっちにあるんだ!)と彼に問うと黙り込み、(そこは傍聴席ですから)とこちらを非難するような言葉を彼は吐いた。これが岡垣町の町長の姿なのです。(あなたたちの言い分もあるでしょうから別室で話ましょう)などという配慮も人徳もない。だから町民から慕われている金比羅山をハゲ山にして平気なんだよ。

 話は飛んで以前に読んだ(働かない蟻に意義はあるか)の本を思い出し、(働かない人間に意義はあるか)を考えてみた。わたしも岡田君も働いていなくて、畑作りや散歩、政治活動をしている状態である。その本の中では次のように書いてあった。蟻の集団生活の中で働かないのは2割くらいいる。その2割を排除したところ、本来働いていた蟻の2割が働かなくなった、という内容であった。

 わたしの周りを見回しても、ここは田舎だということもあって半分の人間は働いていない。全国的にも就労者人口はそれくらいだ。老齢化して働けないものが多いが年金をもらっている仕事が見つからないなどいろんな理由があるが、彼らは飯を食って生きている。わたしと岡田君は毎日山の中を散歩し、自然大好きの人間である。勤め人だったら通勤の車の中から見て、山が崩されて道路工事がはじまったな、というくらいしか思わないのだが、私達はここに住んでいたカブトムシやセミなどの昆虫が殺され、PM2.5を吸い取ってくれていたヒノキの葉も殺され人間が吸わされる自然破壊だと考える。(開発)を主張する町長・職員・議員の利権を許してはならないと考える。勤め人たちの口座からは何にに使われてるか分からない金が町の行政に落ちているだけだが、わたしたちは無駄な使い方を許しはしないし必要のない工事は断固として反対していく。

 ここに働かない人間の意義があり、世の中の変革は岡垣町議員の一部が言う(不逞の輩)の中から出てくるのである。蟻の社会に戦争や災害が起こって働く蟻が減れば働かなかった蟻は働くだろうし、餌が間に合ってるから働かない蟻がでているのだ。予備的な構成員だろうが、多様性とい幅を持たせているとも考えられる。わたしと岡田君は少数派・異端者として町政の中に存在している。町の運営を変える可能性を持ち、町民たちに内情を知らせる者という多様性の中の一員である。

 

東北大震災の報道は行事なのか?

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-3-12 9:52

 昨日は東北大震災が起こって3年目であった。もう3年になるのか?と考え、高台から見下ろす人人に向かって大津波が押し寄せてくる光景は時空を超えた凄まじさがあった、と思い返す。いつのことだったのか?どこだったのか?などという次元ではなく、国や人種、宗教を超えて、誰も忘れはしない光景である。

 ただ、今日の毎日新聞・朝刊やテレビ報道をみると、被災者には申し訳ないが、報道の仕方にウンザリした。天皇陛下や安倍総理や除染作業者たちの頭を垂れる写真を出し、被災者・被災現場を出し、除染差作業の進行状況を描いてるだけである。それも大事であろうが、わたしなら違う視点で描く。

 現代文明をどのように評価し、私達私も含めては今後どのように付き合うのかということである。利便性、快適性の裏側には反作用としてこんな惨事が控えている、では現代文明をこのまま生活の中心に据えるべきか自然を見直すべきかということだ。マスコミや出版界にはこの視点が欠け、抜け落ちているし、そのことに気づかない。無駄な電気を消すとか車の使用を控えるとかいくらでも反省の生活方法はあるが、役所や報道会社・出版社や国民が実行してるでしょうか?してはいない。反省は生活から変えていかねばならないのに口先だけの震災日なのだ。

 (もったいない)の精神を超えて、(自然は命)という考えに立って生活を送りたい。

散るサクラ、残る桜も散るサクラ

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-3-7 2:20

 およそ30年前のNHK福岡でのことです。当時はBS放送が立ち上がり、その普及活動と料金を払ってくれるだろうかという危惧もあり、バブル時代もまだ残っていて活気があり賑やかでした。奨励旅行(仕事をがんばっれ奨励金をもらい慰安旅行に行く)も月に一度はあり、沖縄から北海道までバスを連ねて行きました。みんなでバイクに乗って行く合宿対策などありました。地域に契約対策に行くわけですが、(エイエイ、オー)などと歓声をあげて現地に向かったものでした。管理職も加わりました。

 外務職員という地位があって、依託集金人から出世した人です。我々新入りの集金人に仕事やストレスの解消についてよく教えてくれ、いっしょに合宿して酒を飲みました。

 川原さんという、気さくで面倒見の良い外務職員がいました。30年勤めあげて定年を迎え、局の大広間で送別会が開かれました。100人もの仲間があつまり、壇上に上がった彼は女子職員から花束をもらい満悦でした。

 さて彼のスピーチです。

 (散る桜、残る桜も散る桜)という良寛の句があります。わたしはこうして去っていきますが、つぎは皆さんの番なのです。わたしはこの職場にいて良い仕事をさせていただきました。ありがたいことですが、今日で去ります)

 ここで息をつき、感無量という間を置きました。

 いろんなお客さんに会いましたが、NHKを理解してくれない人には理解していただけるまで無理にお金をもらわないことにしていました。これからは双方向の通信の時代です。パソコンのような通信の分野が伸びるのでNHKはそれに食われてていくでしょう。NHKはCSの中の一チャンネルになるかもしれませんし、口座払いも増えていくでしょうが、集金という私達の仕事はなくなりません。どんな仕事でも最期は人と人の出会いになるのです。

 と話すうちに感極まり、目の涙をハンカチで拭きました。

 わたしたちも胸を打たれていました。

 ところが次の日、NHKからファックスで流れて来ました。訃報でした。おどろいて事態の把握が出来ませんでした。川原職員が心筋梗塞を起こして亡くなり、翌日が告別式ということなのです。

 わたしは唖然としていました。

 次の日に川原職員から送別会のお礼状が届いたのです。死んでるはずの者が、お世話になりました、体に気をつけてください、今後のお付き合いをよろしくお願いします、と書いているのです。

 しばらく考え込みましたが、わかりました。彼は送別会の夜帰宅してお礼状を書き上げ、投函した後に心筋梗塞を起こしたのです。ファックスのほうが先に届いたということなのです。

 良寛の言葉が切実な洒落をおびてよみがえってきました。

 (散る桜、残る桜も散る桜)

 福岡市の彼の家に行き、告別式に出ました。

 その時、わたしも(散る桜)だったのですが、若さのあまり考えつくことは出来ませんでした。

 30年後にわたしは河原さんの年齢になりました。心筋梗塞を起こし、バイパス手術で助かりました。

 人生に感無量をおぼえます。

コンクリートから地面へ

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-3-6 4:10

 (コンクリートから人へ)という言葉は前民主党政権のコピーでしたが、思想的な深みがなくて国民の支持を得られませんでした。安倍政権はそれを逆手にとり、そのコピーが公共工事を減らす原因になり経済活動を低迷させたと非難し、公共工事優先のアベノミクスへ方向変換しました。表面的には国民の支持を得ています。政権の役目とは国民の支持を得られればそれでよしではなく、啓発の役目もあるわけですがとりあえず今のところ支持を得ていることは認めましょう。失敗すれば民主党政権みたいに否定される運命が待っていますが。

 岡垣町議会の傍聴に行っていますが、いろんなことがわかってきました。昨日は執行部からこんな発言がありました。岡垣町はすぐにでも公共工事にとりかかれる体制を持っているから、国の補助金を近隣の市町村よりたくさんもらえるんです。なるほどと思いました。町長を初めとして町会議員、職員たちはアベノミクスに洗脳され、補助金頼みの政治を考えているのです。補助金をもらい、国の言うとおりになるのです。生活保護をもらう感覚です。これで道州制の導入をどうするかなんで議論していました。

 町の活動者、ボランティアや区長、老人会などたくさんの団体に役場が補助金を出し、操ろうとしている状況と同じです。国と同じく金で懐柔してるわけで、貰う方も補助金を要求するようになっています。それで納税額がまた増えるわけです。

 コンクリートから地面へ、という言葉が思い浮かびました。この町は福岡市のような商業都市ではなく北九州市のような工業都市でもありません。そので働く人人が帰宅して、くつろぎ寝るベットタウンです。そこでコンクリート行政をすることは個性と環境を無視した暴挙です。わたしは毎日散歩していますが、人も車も通らない山道をわざわざコンクリートで固めています。地面の呼吸を殺し、人間・生物との循環を阻止しています。役場にそれに気づく者はいません。

 奈良や京都などの地域が文化や伝統を守り、それが街づくりになっている。ヨーロッパでは石畳や石の家に手を入れて古いものを大事にしているのにこの国は金の亡者みたいに破壊することばかりしている。その考えが若者の教育にも悪い影響を与えて、(通り魔)を次々に出現させているのです。

 地面を復活させ、自然との共生をはかるべきです。

多数派による独裁、が民主主義である

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-3-3 20:55

 今日は岡垣町議会を傍聴しに行って来ました。2年前からいつも行っています。町と町会議員の馴れ合いが強く、退屈するばかりであまり行きたくもなかったのですが新たな発見がありました。(平成26年度第一回岡垣町議会定例会)というテーマで、議案の内容を発表し議員たちが意見を述べ確認しました。案件は24条ありインフラ、観光、社会保障、開発など多面にわたり町民にとって大事なものがありましたが、休憩時間にわたしは知り合いの町会議員に次の質問をしたのです。(なにを議案にするかは誰が決めてこの場に出すのですか?)(執行部です)と彼は町の各課の課長(20名あまり)が座る席を指しました。

 (それはおかしい)

 わたしは言いました。

 (彼らに都合の悪いことは案件に出さないことが出来るじゃないか。議員が区の集会や日頃の活動で住民から議案を集め、出すべきじゃないか)

 (そうですね)

 彼は応えました。

 (請願や陳情という方法もあります)

 彼は言いました。

 (へええ?わたしたち税金を払ってる側が町にお願いをするのですか?客がものを買ってる会社にお願いしろ、というのですか?)

 彼は応えませんでした。

 (わたしなら、町に指示する、という言葉を使います。町は政治運営を代行してる機関にしかすぎないじゃないですか?)

 わたしは興奮していましたが、あまりの視点のちがいに驚くばかりでした。

 わたしの腹の中には懸念があったのです。海老津駅南口の開発には政府が8億円の補助金を出すから住民の税負担は少ない、と宮内町長は言っていましたが、それが3億8百万しか出ないことになり、住民達の噂になっているのです。今回、10日間ほど行われる議会の場で町側はそれを伏せ、取り上げない可能性が出てくるのです。議員たちも自分の身を大事にする者が多いので、言い出せないことも考えられます。傍聴席の者には発言権がなく、声を出そうものなら、神聖な議会の業務を妨害したと言って警察を呼ぶでしょう。前回も呼ばれました。

 

 町長や執行部が町の運営を牛耳る独裁体制が出来上がっているのです。傍聴をした意見をご意見箱に入れるようになっていますが、その内容は議員控え室に張られ住民の目に届かないようになっています。返事は貴重なご意見有り難うございました、という文章しか返って来ません。町の催すコミュニティ活動のシンポジウムには参加者の質疑応答の項目がありましたが、その順番がくると一方的に閉会しました。

 24件の議案があっても結果的に議員たちは賛成し、成立するのです。すべては仕組まれていて、予告されたとおりになり、誰も阻止できないのです。国会の場合だってそうです。(秘密保護法案)も強硬採決されて成立しました。NHKの予算も成立しました。これまで通らなかった法案があるでしょうか?わたしは思い出すことが出来ません。

 宮内町長はいつも言います。?住民の皆さんのご協力とご理解をお願いします。

 自分のやってることに気づかないのですね。

 町の職員たちは住民のことを(お客さん)と呼びます。

 町長と同じレベルですね。

 けっきょく、民主主義とは多数派による独裁主義なのです。独裁者が顔にお化粧をして丁寧な言葉を使うだけです。

 

 

 

傑作とは問題提起をする作品である。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-3-1 18:44

 小説「片割れ」に取り組んでいますが、半年間も筆が止まったままで先に進まないのです。散歩中や農作業中に思案したりしましたが、どう書けば良いのかわからなくなってしまった。何を書きたかったのか?はっきりしていたはずではないか?ストーリーも決めていたじゃないか?なぜ書けないんだ?それがわからなくなってしまった、と言うことだ。

 作家でもないのだから放棄してもいいのだが、気持ちに芯が入らない。なにかにひたむきに取り組んでいる時にこそ満足感は唾液のように口の中を満たすのだが、これではそんな気持ちにはならない。いつまでもだ。死ぬまでこんな状態なんて耐えられない。

 今、わかった。

 作品を書くということは現在の生活と自分を客観視し、そこに作品のテーマと素材を考え探すことだ。自分と他者の立ってる位置を知り、確認することで行き先もはっきりさせることなのだ。禅の修業ににているが、これでわたしの人生はだいぶ救われている。どうしようもなくなって若者が通行人を車で次々と跳ね飛ばすニュースを耳にしたりするとあれは昔の俺だったかもしれない、と思い返したりするし、そんな人達に何か助言でもしてやりたい。(敗残者の講演会)など実際に開いてみてはどうだろうか?

 傑作小説は書き出しで、問題提起をしている。カミュの「異邦人」?きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。養老員から電報をもらった。ーどういうこと?自分の母親が死んだというのにこの他人事のような言葉。それに死んだのが今日だったのか昨日だったかもはっきりさせない作者。この非常識さは何を言いたいのだろうか?

 (自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた)ーマルケスの「予告された殺人の記録」。ー自分が殺される日を予感できる人間なんていないはずである。この書き出しは何を意味しているんだろう?と不信に思いながら読み進めていくと、あの男が殺される、という噂にまでなっているのに誰も止めることが出来ず殺されてしまう。この不条理を書き出しで暗示していることがわかる。

 わたしの作品は書き出しの部分から道を反れてしまい、書いてる側も緊張感を失ってしまい、迷路に迷い込んでいたのだ。本道に戻り、題名の「片割れ」で何を言いたいのか再確認し、書き進めていくことにした。

 次の文章が浮かび、道は決まった。?(遊民)のママは言った。「そんなことじゃ出て行くはずがないじゃない。わかってるでしょう?兵糧攻めにするのよ」

E・フロム著「自由からの逃走」を読んだ時

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-2-28 1:34

 東京での遊学時代に、E・フロムの「自由からの逃走」という本を読みました。人間性にはまったく逆の方向性があることを知り、驚きました。第二次大戦前のドイツ国民のことです。ワイマール憲法の下で民主的自由体制を持っていましたが、ヒトラーが現れると独裁主義の監獄体制にみずから入っていったと本の中で考察していました。なるほどと考えました。わたしは今、無職で自由の身ですが、働きたい、なにか活動したいとという欲求があります。同時に集団の中で管理されたいという願いが潜んでいます。

 北朝鮮の独裁体制はいつまでつづくのでしょうか?人民はそろそろ自由な生活に入っても良いのではないでしょうか?わたしの知人に精神科の授産施設で生活している人がいます。もう15年にもなります。つい最近まで退院したい、と口癖のように言っていましたが、近頃は言わなくなりました。四畳半くらいの個室で、日当たりも悪く隣部屋から咳払いも聞こえる所ですが、軽作業をしながら規則正しい生活を送っています。お金は自由に使えず、外出にも許可が要ります。酒もタバコも女もダメです。わたしが病院に入院していた頃を思い出します。脱走をはかったがために財布もケイタイも取り上げられ、5階のフロアから動かないように指示され、新聞も読めませんでした。ところが軟禁生活に耐えられない、と同時にどこか心が安らいでいました。

 今は自由の身ですが、老人ホームに入れば生活や病気、死の心配もしなくて良いのにな、と考えることもあります。老人ホームは有料ですが刑務所は無料だな、などと突拍子もないことを思いついたりします。戦時中には精神を病んだ者がほとんどいなかった、ことを知り、(天皇陛下万歳の精神)でも産まれた時から叩き込まれれば、(金政権万歳)などはすぐそばにあるのがわかります。日本が右傾化の方向に進んでいます。NHK会長も(従軍慰安婦など当時はどこいでもいた)と公言してるではないですか?この変化を意識していないとまた(恐い時代)が口を開けて待っているのです。

NHKは有料放送に変わるべきである。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-2-27 13:24

 15年ほど前に退職した営業職員は、「わたしが辞めた後、NHKはペイテレビ(有料放送)にかわっているかもしれません」と言い、わたしはその言葉を思い出します。電波を一方的に流して金を取るほうが儲かる」と言った職員もいますが、それはボッタクリですから良いことではありません。NHKの言い分は、公共放送だからこそ、視聴率に左右されない良質の番組がつくれるのです、ということですがそれは都合の良い言い方です。どんなメーカーでも大量に売れる商品ばかりを生産してるわけではありません。この商品はあまり売れないが我が社の顔みたいなものだから生産し、採算は二の次というものがあります。NHKは大河ドラマ、連続ドラマ、試してガッテン、ニュースなどは高視聴率ですが、教養番組や障害者向けの番組は低視聴率です。でもその番組を必要とし、生活に役立ててる人もいます。それは番組の配分にかかっていて、そこから採算をはじき出すわけですが採算という分野では計り知れないもののことも考えねばなりません。採算の基準を超えてもなお希少なものをつくる姿勢が本当の評価になるのです。

 同時にわたしはここで(官)と(民)のちがいを考えてみたいのです。(官)の言い分は、費用対効果を考えなくていいから公共の仕事ができるんだ、ということですがそれは自己正当化にしかすぎません。鉄道の仕事だって民間がやってるのだから高速道路や一般道路だっても民営でやっていけます。そうしたほうが痛んでもいない道路を予算消化のために掘り繰り返すこともありません。交通量が増えることを予想して道路を作ったとします。最初は車が少なくて不採算でしょうが見込みどおり車が増えれば採算が取れます。

 結局、NHKの民営化ということはすべての業界において官と民のちがいがなくなり、官は民に吸収されるということなのです。だから、NHKが変わらなければ日本は変わらない、と以前から、つまりNHKの依託集金人をはじめた時からわたしは考えていたのです。

 NHKが有料テレビに変わって採算が取れなければ、総務省にチャンネルを半分も返し、リストラをしていくべきです。政府からの独立も出来ます。(真っ直ぐ真剣)でNHKは番組をつくり、それで勝負しなさいよ、とわたしは依託集金人の時よく言われました。

 

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